エスクラールモンド・モンテイユ、トワル・ド・ジュイ(西洋更紗)女性美術館長
名工の製作したプリント布地への想い。
フランスでは特に、農村風景をしばしば描いたそのモチーフが、沢山の家具調度を被う生地や壁紙を賑わせ、また、トワル・ド・ジュイ(西洋更紗)という総称で、あらゆる種類の媒体に転用されている。このトワル・ド・ジュイのための美術館が、かつて1759年、クリストフ・フィリップ=オベルカンフが、彼の綿布をプリントする工場を建てた村、パリとヴェルサイユの間に位置するジュイ・アン・ジョザスにあります。このたび、これらの布地コレクションの一部を展示するため、エスクラールモンド・モンテイユ女性館長が東京にいらっしゃいました。それらの布地を観ると、想像力が色々湧いてきます。
フラン・パルレ:貴女は館長さんでいらっしゃいますが、どんなお仕事をなさっていらっしゃるのですか?
エスクラールモンド・モンテイユ:館長としての仕事は、後世の人達もまた作品を活用出来る様に、過去の全ての作品を保存することです。また、作品価値を高め、これら芸術作品の周辺に関連する情報を発信することも仕事の一つです。
フラン・パルレ:このお仕事を選ばれたのは何故ですか?
エスクラールモンド・モンテイユ:常日頃わたしは、。。。。そうですね、遠い思い出をたどれば、私はよく美術館に連れて行ってもらいました。ずっと芸術の世界に憧れ、常にそこで仕事をしたいと思っていました。不幸なことに、私自身は芸術的才能に恵まれず、画家にはなれませんでした。それで、この世界の違った道、館長の仕事を選んだのです。
フラン・パルレ:トワル・ド・ジュイといえば、私にとって、子供時代の思い出につながります。祖父母の家にあった壁紙を思い出します。トワル・ド・ジュイといえば、ただそれだけなのですか?
エスクラールモンド・モンテイユ:たいていの場合は、そうです。ですから、正にそのために、トワル・ド・ジュイにまつわる並々ならぬ共感が寄せられるのです。多くの人々は、彼等の別荘や子供時代に、それを見て知っているからです。でも、それだけではないのですよ。このトワル・ド・ジュイという言葉は、オベルカンフが、彼の工場を持っていた時代に、ジュイで製造されていなかったものも実際しばしば指しているのです。
フラン・パルレ:その種の工場が、ジュイ・アン・ジョザスに建てられた経緯は何だったのでしょう?
エスクラールモンド・モンテイユ:たぶん、こんなことではなかったのではないでしょうか。パリの職人だったオベルカンフは、ゴブラン工場のあった界隈の職人だった。そして、この界隈で、ビエーブルという川がセーヌに注いでいた。ですから彼は、恐らく自分の工場を立ち上げる場所を探していた時に、その川を遡り、ジュイ・アン・ジョザスに辿り着いたにちがいありません。そこには、ビエーブル川の水と、彼のプリントした布を広げるための草原があったにちがいありません。市場の可能性としてのヴェルサイユにも近かったのです。
フラン・パルレ:マニュファクチャー(工場)といっても、芸術性が高かったのですか?それとも工業的だったのですか?
エスクラルモンド・モンテイユ:(笑い)当時は、産業革命の転換期にさしかかった時期です。第一次産業革命です。従って、オベルカンフが工場を始めたときは、弟と三人の使用人しかいませんでした。彼等は小さな家に住み、嗜好品を製造する家内工業を営んでいました。少しずつ工場は大きくなり、本当の工場のように運営していったのです。製造工程ごとに、建物を増やしていったのです。ついに、14ヘクタール以上の敷地に、約30棟の様々な建物が点在していました。
フラン・パルレ:当初は、貴族向けの贅沢品を作っていたのですね。大衆化していったのですか?
エスクラールモンド・モンテイユ:はい、最高級の布地では、嗜好品を作っていました。でも、常に、とてもシンプルな布も製造していました。ミニョネット(「小花散らし模様」)と呼ばれて、一・二色刷りで、連続した、それほど凝っていない小花を散らしたもので、、売れ行きは上々でした。その上、製造コストは安く抑えられました。
フラン・パルレ:私の家にあった、トワル・ド・ジュイは、どちらかというと、かなりクラシックな感じがしました。当時はクラシックだったのですか?それとも、モダンだったのですか?
エスクラールモンド・モンテイユ:クラシックなんてとんでもない、モダンだったのです。とてもモダンで、それ以前、誰も見たことがなかったのです。風景等の中に人物をいれたものを求めたければ、実際のところ、タペストリー(壁掛け)がありました。今回の展示場の入り口に掛かっているようなものです。ですから、トワル・ド・ジュイは、本当に斬新だったのです。人物入り風景をプリントすることにより、壁面のみならず、ベッドや椅子にも広げることが可能になったのです。従って、それらの作品には、新しさがあったのです。それから、彼等は、とても幾何学的なモチーフを考案しました。19世紀の初めごろより、豹の毛皮のモチーフも始めました。こちらは、実に超革新的でした。
フラン・パルレ:それは、時代の証人と言えますか?
エスクラールモンド・モンテイユ:ええ、全くその通りです。詳しくは知りませんが、彼は、5つ6つの政治体制をくぐり抜けていますから。国民公会(1792-95)、執政政府(l799-1804)等です。ルイ十五世時代から1815年までです。フランスでは、社会の中でも、人々の嗜好の上でも、多くの変化がもたらされた時代です。それで、いかなる手工業生産の上にも、いわばこれら全ての変革が影を落としているのです。
フラン・パルレ:申し訳ありませんが、私にとって、もっともクラシックなものに、話題をもどさせて下さい。あの布地、あの農村的、田園的風景は、そのスタイルをどこに由来しているのですか?
エスクラルモンド・モンテイユ:ブーシェやヴァトーの絵に遡れるのではないでしょうか。牧歌的な、遊牧的風景のあの流れから全て来ています。オベルカンフが後日彼の布に再現しようとしたのは、正に18世紀の初めのこの流れを汲んだものだったのです。
フラン・パルレ:ところで、トワル・ド・ジュイ美術館は、どうやって、そのようなもろくデリケートな作品を収集されたのですか?
エスクラールモンド・モンテイユ:正にそれらは、生き残り品なのです。私は、いつも、これらの作品は、本当に難を免れた生還者だと言っています。たいていの場合、家具の装飾として使われた物は、剥ぎ取られ、単に捨てられたものなのですから。でも幸いなことに、オベルカンフ家の後裔が、19世紀の終わり頃より、彼等の先祖を崇拝する気持ちを抱くようになったのです。ですから、彼等は純粋に家族の中で、沢山のものを保存していたのです。それで、l970年代、ジュイにその美術館がオープンして以来、彼等は、多くの作品を美術館に寄付してくれたのです。その上、今でも、トワル・ド・ジュイ美術館の友の会会長は、オベルカンフ一族の後裔が努めておられ、私達のコレクション用に、競りで購入したり、別の方法で作品を入手するときに、大いにご尽力してくださっています。
フラン・パルレ:貴女がこれらの作品を保護するために心がけていらっしゃることは何でしょう?
エスクラールモンド・モンテイユ:もっとも重要なことは、それらを光にあまりさらさないことです。そのために、展示会場では、かなり薄暗くして、50ルクスに抑えていなければなりませんし、通常、年に三か月以上は展示いたしません。オベルカンフ製品が、色落ちせず、相対的に、時の脅威に強かったとは言え、光、とりわけ直射日光は、これらの布にとって、もっとも危険です。
フラン・パルレ:判りました。ではこれらの布は、美術館から持ち出されたことが殆どないのですね。
エスクラールモンド・モンテイユ:そうなのです。そんなわけで、我々美術館では、同じモチーフの作品を数枚持ち、展示中の作品を交換したりして気遣っています。
フラン・パルレ:製造は、その村のあったところでは止まっています。いつか、工場が再開される見通しはないのですか?
エスクラールモンド・モンテイユ:ジュイでは、もうありません。そのかわり、別の全ゆる布地業者が、そのモデルを奪い合い、その結果として、世界中いろんな所で生産されているトワル・ド・ジュイが存在するようになりました。次いで、シャルル・ブユルジェやピエール・フレイといった大物生地業者が、今や、トワル・ド・ジュイを生産しています。ブランクニエ商会は、ジュイの工場が閉鎖されたときに、そのモチーフを買い取り、以来それを生産し続けています。ですから、ジュイの工場閉鎖以来、このような一種の技術伝達が行われているのです。
フラン・パルレ:(冗談に)では、パリの地下鉄のオベルカンフで降りれば、直接ジュイ・アン・ジョザスにたどりつけるのですか?
エスクラールモンド・モンテイユ:残念なことに、そうはいきません。(笑い)第一、なぜあの地下鉄駅やあの通りが、オベルカンフという名前を冠したのかわかりません。不幸なことに、大部分の人が、オベルカンフとは誰なのか知りません。ですから、彼がトワル・ド・ジュイで名をなしたことを知ってもらうことが、私達の美術館の仕事であり、それはまた、今回のような展覧会を開いて頂いたお蔭なのです。
フラン・パルレ:貴女の美術館では、特別展をなさるのですか?
エスクラールモンド・モンテイユ:いたします。コレクションの常設展以外に、少なくと年一回、臨時の展覧会を開きます。時には、現代アート展を開きます。というのは、沢山の現代ア-ト作家が、トワル・ド・ジュイに啓発され、彼等の作品に使われるからです。ですから、現代アート展と伝統的な作品の展覧会とを、交互に開きたいと心掛けています。
2016年6月
インタビュー:エリック・プリュウ
翻訳:井上八汐