マルタン・プロヴォは、彼の長編映画『セラフィーヌ』(邦題『セラフィーヌの庭』)で、独学した女流画家、セラフィーヌ・ルイの肖像を描いてみせた。今回、彼のシンパシーを寄せて語られるのは、女流小説家シモーヌ・ド・ボーヴォワールと同時代を生き、しかも、彼女の<庇護を受けた>あの女流作家、ヴィオレット・ルデュックである。セラフィーヌ・ルイと全く同様、遂には、栄光の時代を生きたものの、忘却の彼方に葬りさられていた一人の女性の運命である。フラン・パルレ:あなたの映画『ヴィオレットーある作家の肖像』では、もう一つの映画『セラフィーヌの庭』に於けると同じく、二人の女性の人生を映像化していらっしゃいます。貴方にその選択をさせた動機は、二人の主人公が女性だったからですか?それとも、彼女たちの人生が、少々苦難をなめた人生だったからですか?マルタン・プロヴォ:僕に動機を与えたのは、彼女たちの人生が苦難に満ちたものだったからではありません。彼女たちの作品そのものに対して、当初から興味があったのです。そして、セラフィーヌの作品に関しては、僕は自分自身で、その素晴らしさを見出したのです。ラジオ放送のフランス・キュルチュールで働いている女友達が、ある日電話をかけてきて、「マルタン、セラフィーヌの作品を観に行くといいわよ。」と言いました。「でも、なぜ?」と尋ねると、「あなたの為を思って」と言うのです。そこで、今でも覚えているのですが、僕は自分の車にすぐ飛び乗って、セラフィーヌの作品がいくつか展示されていたサンリス市に行きました。覚えていますよ、実にショックを受けましたね。そこに展示されていたセラフィーヌのカンバスを5,6枚見た時のことです。「一体全体、家政婦の分際でこんな絵が描けるなんて!」と思いました。本当に面食らってしまいました。その時以来、僕はその人物に興味を持ち始めました。それからは、もちろん人物像を掘り下げながら、これはきっと面白いぞ、あのような時代に、いっぱしの家政婦が、絵を描き、時代のあらゆるタブーに挑戦し、どうやって傑作を残すことに成功したのか探ってみるのは........と思いました。ヴィオレットの場合も同じことが言えます。でも、正直なところ、僕の方から探し求めたわけではないのです。向こうの方から僕の方にやって来たということです。僕はと言えば、ひたすら我が道を進む、すると向こうの方から、事が僕に近づいて来たのです。僕の場合、いつもそうなんです。僕はこの映画『ヴィオレットーある作家の肖像』の脚本を一緒に書いたルネ・ド・セカティを通して、ヴィオレット・ルデュックに<巡り会えた>と言えます。彼は以前、僕が書いた小説、自伝的小説を出版してくれたことがありました。それは偶然、映画『セラフィーヌの庭』を制作するちょっと前のことでした。ある時ルネ・ド・セカティに出くわすと、彼は僕にこう言ったのです。「じゃ、君の本を出版してあげよう。ところで、いま君は何をしているの?」。僕は“セラフィーヌ・ルイ”という映画を撮ろうと思っているよ。」と言いつつも、ルネ・ド・セカティがセラフィーヌという人物を知るはずがないと確信していました。
だって、セラフィーヌを知っている人なんて誰もいなかったのですから。ところが意に反して、ルネ・ド・セカティは、彼女が何者か、それはもう良く知っていたのです。彼は、すでにヴィオレット・ルデュックに関する本を一冊書いており、ヴィオレット・ルデュックはというと、セラフィーヌをとても崇拝していたという訳です。しかも、ヴィオレットはすでに、セラフィーヌに関するエッセイを書いていて、シモーヌ・ド・ボーヴォワールが、“レ・タン・モデルンヌ(「現代」)”誌に、それを掲載することを拒んでいたのです。それを、ルネ・ド・セカティが僕にくれ、読んでみた時、僕は「もう一つ別のテーマができたぞ……」と内心思いました。その文章は本当に美しかったのです。それで、ヴィオレットの本を色々読んでみました。 結局、僕は「もう一つ別の映画を撮ってみよう、ヴィオレットに関するものを。」と考えました。ですから、色んなことが、僕の知らないところで、絡み合い、少しずつ互いに重なり合ったというしかありません。そんなわけで、映画『セラフィーヌの庭』と『ヴィオレットーある作家の肖像』に関する仕事をすることによって、僕は、この二人の女性の運命に深く関わっていったのです。フラン・パルレ:ヴィオレット・ルデュックの作品は、現在フランスでよく読まれているのですか?マルタン・プロヴォ:本のお蔭で、いや、映画のお蔭で、また、読まれるようになりました。彼女の全作品が再版されたからです。例えば、“Ravage”(「破壊」)は、もう手にはいりませんでした。絶版になっていましたから。そして、彼女は少々忘れられた存在でした。確かに、映画が制作されたお蔭で、彼女の全作品が再版されることになり、大衆にとって、全作品に触れることが出来るようになったのです。フラン・パルレ:この映画の中で、貴方は二人の女流作家に視点を注いでいらっしゃいます。貴方にとって、本の持つ力<le poids du livre>とはなんですか?マルタン・プロヴォ:本の持つ力<le poids du livre>、物を書くことの重要性<le poids de l’écriture>ですね。それは、重圧<le poids>ではなく、むしろ反対でしょう。即ち、現実を超越し、現実の姿を変える能力です。現実をあるべき正しい場所に置き換え、結果として、現実と手を切り、解放し、現実を次の段階に移行する能力です。ヴィオレット・ルデュックは、作品を書くことを通して、自伝的小説(オートフィクション)と呼ばれる作品を実践した最初の女性と言ってもいいでしょう。今日では、多くの女性がやっていることですが。男性だって大勢やっています。自伝的小説を書くことを通して、彼女は少しずつ自分自身の人生を受け入れていったのだと思います。言いかえれば、世間ともはや闘うのではなく、世間との関係を平穏に保ちながら、次の段階へと移って行ったのだと思います。その結果、彼女は、世の中で、人生の中で、自分の居場所を見つけることができたのだと思います。フラン・パルレ:ヴィオレット・ルデュックの自伝的小説からすると、もっと違った情景を想定させることだって出来たと思いますが、貴方の映画では、極めてそれが控えめに描かれていますね。どうしてなのですか?マルタン・プロヴォ:それは、きっと僕の物事に対する見方に起因していると思います。僕が少々スキャンダル作家と世間で考えられているヴィオレットの作品を読んで感じたのは、そのスキャンダルはたいしたことではなかったということです。ヴィオレット・ルデュックにあってもっとも興味あることは、そんなことではないということに気が付いたのです。彼女自身こういっているのですから。「私は一人でいるのが好きな人間です。人を寄せ付けない無人の孤島なのです」と。彼女は奥深い孤独の中で人生を送ったのです。彼女は、それ程激しい性生活の体験を持ったわけではないのです。世間が信じていることとはむしろ反対です。彼女は自分の性生活を単に作品に書いただけなのです。それが、あの当時、完全に或は殆どタブー視されていたことだったのです。でも実際は、彼女は深い、深い孤独人生、何と言ったらいいか、謙虚過ぎると言ってもいいほどの人生を送ったのです。その点を僕は映画の中で強調したかったのです。フラン・パルレ:貴方はさっきタブーとおっしゃいましたね。結局のところ、少しずつとはいえ、女性は自分の人生の選択にあたって、権利を増やしてきました。貴方はこれ以上まだ女性たちが克服すべきことがあると思われますか?マルタン・プロヴォ:無限にあるのではないでしょうか。果てしないといってもいいでしょう。後退するということだってあるでしょう。いつもそうでしたよ。そう、そう、男女間は対等ではありません。給料に於いては、男女は平等ではありません。ともかく、フランスではそうですね。だから、男女間に問題があるかどうか、給料を比較しただけで充分わかります。女性たちは男性たちと同じほどには稼いでいないのです。どうしてなのかわかりませんが、現実はこうなのです。フラン・パルレ:これは悲しい現実ですね。でも、女優さんたちは高収入なのでしょう!マルタン・プロヴォ:そうですね。でも、男優に比べたら、それほどではありません。正しここでは、給料の多い少ないを言っているのではありません。この男女間の不平等という現実があり、そのことがこれからも続くということなのです。とはいえ、明らかに女性の人生は変わりました。女性は自分自身から解放されました。肉体の解放です。でもね、中絶という問題は、しばしば蒸し返されています。スペインでは、ヴィオレットもそこに滞在したことがあったのですが、そこでは、ごく最近もありました。僕は、女性たちがどれ程その問題に心を砕かれたかを知ってとても関心を持ちました。中絶が再規制され、禁止されることが、再び話題になったのですから。女性が、肉体の解放、性の解放、自分自身の解放を、はっきりと確保できるかどうかという問題は、しょっちゅう繰り返し俎上にのぼるのです。まだ、完全に勝利を得ていないのです。結局、今でも、ある国々では、その問題は全然解決されていません。ですから、そう、そう、これからも常に用心深く警戒を怠ってはなりません。ある種の雑誌、フランスにもありますが、女性の肉体を売り物にしている雑誌類があります。その問題は、どこにもあり、いつも話題になり、無くなることはありません。フラン・パルレ:映画『セラフィーヌの庭』と『ヴィオレットーある作家の肖像』は、三部作のうちの、最初の1,2作目ですか?マルタン・プロヴォ:そうですね、僕も始めそう考え、こんな風に思ったのです。―「女流音楽家で、第三の肖像を作ってみようか」と。でも、そのような女性が見つからなかったのです。一人も。本当に。でも、今、別の企画を立てています。違った事をしようと思っています。ともかく、僕の路線を続けることには変わりありませんが、女性に関する別の映画、苦難な人生を送った女性の映画を撮ろうとは思いません。違った計画を考えています。とりわけ、人には知られていない男に関するものです。フラン・パルレ:でも、やがては世間が知ることになりますね。マルタン・プロヴォ:まあ、そういうことになりますね。フラン・パルレ:話題をすっかり変えさせてください。フランス語の学習者に貴方からのアドバイスを頂きたいのですが。映画を鑑賞しながら、どうやってフランス語を学んだらいいのですか?上達方法を教えてください。マルタン・プロヴォ:字幕を消して観ることですね。といって、僕はそうするかどうかわかりません。僕の場合、日本映画を字幕なしで観たら、きっとチンプンカンプンでしょうから。でも、語学の勉強に関する限り、一旦初級の学習を終えたら、字幕にたよらずに観てみることが大切です。たとえ内容が理解できなくてもね。例を出せば、今でも覚えているのですが、僕が俳優をしていて、シェークスピアを勉強をしていた時、こう言われたものです。「一字一句を理解しようとするな。大切なことは、一種リラックスした気持ちで演じることだよ」と。実際、理解とは、そうやって生まれるものでしょうから。僕は、全ての言葉を学ぶ上でも、同じことだと、そう理解しています。人は自分自身から解放された時、わかってくるのです。理解とは、言葉を越えたところにあるのです。それは、一種の心の落ち着きとも言えるものです。相手を理解し、相手が、言外で、何を貴方に言いたいかを汲み取るために必要な、一種の沈着さなのです。2015年7月インタヴュー:エリック・プリュウ翻訳:井上八汐
マルタン・プロヴォ、映画『ヴィオレットーある作家の肖像』の監督
投稿日 2015年11月17日
最後に更新されたのは 2023年5月25日