ブリュノ・デュモン:思考する映画素人の役者の起用、哲学の教師だった過去、これらの経歴は、カンヌ映画祭において、ブリュノ・デュモンがその作品『フランドル』でグランプリを取るのを妨げなかった。喜劇を否定しない一方で、その絶対的優位に抗い、監督は彼が必要と判断した悲劇を観客に提供する。フラン・パルレ:あなたは心底、田舎に惹かれたのですね…ブリュノ・デュモン:本質的にそうですね。それは最も崇高な物事を連想させるのには良い素材です、私の考えでは。だから、私は田舎にとどまっているのです。私は風景を撮るのが好きですし、空や木々を撮るのが好きです。それに私は最終的にそれらの風景の中に、人間に関わる探究へのメタファーを見いだそうと試みているのです。フラン・パルレ:あなたの作品は「善と悪」という名前でも良かったのではないですか?ブリュノ・デュモン:映画作品は100%その「善と悪」のタイトルをつけられると思います。なぜなら結局は常に同じ問いに関わるからです。そしてこれらの問いは真の問い、疑問であり、芸術作品というものは常にこの「善と悪」の難しい関係を説明、連想を追い求めているのです。フラン・パルレ:『フランドル』では戦争のテーマがかなり存在していますね。あなたは匿名の、イスラム教の地域を選ばれましたが、ヨーロッパのある国にもなり得たのではないでしょうか?ブリュノ・デュモン:ええ、大いにあり得ます。何故ならそもそも初め、私がシナリオを書いていた当時は、それはどちらかといえばアフガニスタンだったのです。それから私はそこよりむしろ中央ヨーロッパで探したのですが、中央ヨーロッパは十分緑化していました。それに私はフランドル地方に比べてかなり強いコントラストが欲しかったのです。そこで最終的に私はチュニジアに撮影に行きました。そこはむしろ砂と鉱物の土地で、フランドル地方の緑と十分強い対照をなしていたからです。それで、まさに断絶を探したのです。この作品の戦争は確かに少し抽象的です。何故ならそれは歴史的な、または政治的な戦争を思い起こすことをあまり主題にしていないと思うからです:それは私のテーマでは全くありません。それより全人類を苦しめ、私達を戦闘員にさせるのはむしろこの脳内戦争なのです。フラン・パルレ:脳内戦争ですか?ブリュノ・デュモン:私が思うには、映画は、一般的な手法のものは、外側を想起させない、つまり世の中を想起させないのです。それはこの世界における私達の関係を思い起こさせるのです。それは世界と私達のつながりを表現しているにすぎません。この世界は常に私達の脳によって、両眼によって見られています。客観的なこの世界は存在しません。そして画家であれ、詩人や小説家であれ、芸術家達は常に最終的にこの世界における私達の存在を表現し続けるのです。そしてこの世界に存在すること、この内面、これが、私が世界の感覚と呼んでいるものです。それに『フランドル』の例では、作品の始めから終わりまで、我々は主要人物デメステルの内面を共有していると思います。そして私が『フランドル』の風景を作る時、最終的にそれはフランドル地方ではなく、それは内面の風景、それは私達自身になるのです。それは自分自身、願いや欲求の喚起です。映画はそのショットやエクリチュールによってまさにその表現に到達しようとするものです。フラン・パルレ:考えさせられますね…それが映画の有用性ですよね?ブリュノ・デュモン:そうです。私は映画というのは熟考する道具だと思っています。つまりそのことはとても大事なことで、映画産業が私達を仕向けたがっているような気晴らしの時間ではないのです。というよりそれは瞑想の時間だと私は思います。私達の状況について率直に、このように、私達の人生についての。とはいっても、とても簡単です:生きるということは何か?人生とは何か、そして映画作品は小説や詩のようにこの謎を解く鍵を見つけようと試みているのです。フラン・パルレ:あなたは主役に素人の俳優を選びましたが…ブリュノ・デュモン:全員素人です。それは私の経験から来る選択です。私は、映画を撮る前は、企業向け、産業向けの社内コミュニケーション用作品を数多く作りました。だから私は実在の人々を多く撮ったのです。つまり、そこには俳優はいなくて、管理職や労働者を撮っていたのですが、私はその確実さ、正確さや、その力と強さに気持ちを揺さぶられました。プロの俳優たちとのいくつかの経験は私をいつも少しあきれさせるものでした。彼らの精神面の作業に関して特にそうでした。彼らは彼らの構成の中で、監督の意図、計画を彼らの仕事で具現化しようとしていました。私としては、私の着想はたいしたことがないと思っていますので、その着想ではなく、具現化する必要があるのは、実在する人間なのです。だから私は実在する人間から端を発して精神面まで到達しようと試みる方が好きなのです。私は精神面に対抗するものは何もないのですが、この地味な行程をとる方が、着想みたいなものを作りあげるような、そんな俳優を使うより必要なことだと思うのです。それが、私が思うには、構成する俳優陣の指揮において、私がまさに直面した難しさです。そのことが私を実在の人々と仕事をするように仕向けたのです。しかしながら彼らは俳優であります、つまり演じる人です、それは彼らの人生では決してありません。それは参考資料も何もない、完全に架空の映画です。私はフィクションは役者の事実を糧にし、役者はフィクションに関わる必要があると思っています。役者は演じるのだけれども、彼は彼の肉体を用いて演じるように、彼自身の感性で演じるのです。そこに存在するのは彼の生身の肉体です。それに化粧を施すことや、いくつかの小さい変化を加えることは出来ます:その存在を際立たせたり、和らげたりすることは出来ます。でも原点は、そうはいっても彼自身であり、その心理的、感情的な素材、本能であるのです。そして彼から始まって同時に行動と精神面に到達するべきなのです。フラン・パルレ:あなたは脚本も手がけられましたね。あなたはあなたの着想を表すことに関心を持たれていらっしゃいましたか?ブリュノ・デュモン:いいえ、まさにそうではないのです。私は、私の着想の強さを信じていません。私があなたに今申し上げていたことに少し近づこうと思います:シナリオとは精神面の作業なのです。私達の頭の中に浮かんだ何かを書いて、言い表しますが、私はその段階には多くの主張、漠然とした意志、おおよそのことが存在していると思っています。でも必要なことです。だから私はシナリオを書きますが、実現する段階に移ると、私は、こう言った方がよければ、実行していくなかで、このシナリオの素材を見つけて、実現していこうとしているのです。つまり、最終的に源流にあるものに戻るということです。だから、作品は描かれているものの説明ではなく、描かれているものの理由への回帰なのです。そこから自然のままの装飾、ありのままの人間、自然な会話の中で、でも少しは芽生えがある余地があるという私の仕事の仕方が生まれたのです。私にとって、興味があることは、始めることなのです。とにかく、観客がそこに存在するのですから、そうすることはない…作品は完結する必要がないと私は思うのです、何故なら観客は、読解、実感、反応する能力を持っているから、その天賦のものが彼らに何かを与えるべきです。私は天賦の運命をとても信じていて、観客の力、映像を読む力、省かれたものを理解する力をとても信じているのです。フラン・パルレ:観客は脳を持っていると…ブリュノ・デュモン:彼らは脳を持っているし、文化、感受性を持っています。彼らは白紙の状態でもありません。私は作品を編集する時、実際、編集しているのは観客そのものだという印象を持っています。私は観客を内側からととのえるのです。私が投影する映像は、極端に言えば、彼ら観客自身の映像であるか、あるいは彼らの映像と私が対抗するかですが、私がある意味で構成しようとしているのは観客自身なのです。2007年5月インタヴュー:プリュウ・エリック翻訳:粟野みゆき
ブリュノ・デュモン、映画『フランドル』監督
投稿日 2007年5月1日
最後に更新されたのは 2023年5月23日