フラン・パルレ:あなたは”J’aime le Solfège”(ジェーム・ル・ソルフェージュ:ソルフェージュが好き)というタイトルの一連のコンサートをしていらっしゃいますが、このタイトルは、興醒めになりませんか?|
ローラン・テシュネ:そうですね、まあ、毎回、私が極端に世間知らずだったり、またはみんなを困らせる永久のいたずらっ子になるにしても、私は何故ソルフェージュが多くの人々にとって、こんなにも制限された、また限界のある、味気ない、また厳格なイメージがあるのかが理解できません。だから本物のソルフェージュを見せる必要があると私は思うのです。ソルフェージュのコンサートをやるべきです。なぜならルネサンス以来の膨大なレパートリーが存在するからです。それにとても美しい。何と言ってもポルポラ、スカルラッティ、メシアン、ケルビニのソルフェージュがあります。それら全ては、非凡な作品です。それに、これらのやるべきコンサートの中に、『レクチャー』パートを設けるのです。それは経験豊富な、教育の最高権威と、もちろん、まだ若い教授が説明するコーナーです。それは意見交換ですが、それらは教授たちの小さな世界だけにとどまりません。そうでなければ堂々巡りになりますし、それに既にこういった事に関しては当然沢山の機会があります。これはむしろ広く一般大衆向けなのです。なぜなら私は何故みんなソルフェージュが好きでないのか分からないからです。だいたい、”J’aime le Solfège”(ジェーム・ル・ソルフェージュ)の発想は私でもなく、ドビュッシーなのです。ドビュッシーはパリのコンセルヴァトワールに居た時、誰もが知っている、極めて反抗的は生徒だったのです。彼は何度退学になりそうになったかわからないくらいですが、彼が好んだ唯一の授業が、ラヴィニャック先生とのソルフェージュの授業だったのです。このことから私は少し着想を得て、謙虚に、ソルフェージュの正しいイメージを与えようと思ったのです。このことを考えているのは私一人ではないと感じていますが、でもそれはとても難しいことです。私は生徒達にこう言っています:「私はソルフェージュが好きです」当然これはみんなを笑わせます。そうはいっても、多くの人がこの企画に参加しにくることに私は気がついています。今や学生たちの音楽祭、芸祭で、学生たち自身が、この”J’aime le Solfège”を(フランス語のタイトルで)開催しています。だから何らかの影響があるのでしょう。私が考えるには、教育は、ただその高い実力を誇り、時には常軌を逸したそのエリート主義から脱するべきです。そうなれば、みんなで何らかの共有が得られると、私は期待しているのです。