ファトゥ・ディオム:人生の選択セネガルとフランスの二重国籍を持つ小説家ファトゥ・ディオムは、ニオディオールというセネガルの小さな島に生まれた。そこは交通の便が悪く、伝統の重みが強く残っているところだ。彼女の小説『大西洋の海草のように』が彼女を小説界の表舞台に押し上げたのだ。彼女は3月7日東京で、フランス大使館と日本経済新聞社の共催によるイベント、ファム@トウキョウの一環であるパネルディスカッションに参加する予定である。フラン・パルレ:セネガルでは、男の子と女の子では教育の仕方がかなり違うのでしょう?ファトゥ・ディオム:そうです。何故なら男の子達は王様じゃないですか、そう、彼らは小さな王様なのです。例えば貧しい家庭において、誰を学校に行かせて、誰を行かせないか選ばなければならない時、しばしば、まずは男の子達を就学させることを選びます。それから教育現場でもおそらく男の子の方をより待ち望んでいるのです。そして女性たちは少し管理されているのです。それは私が幼い頃から否定してきたことだと思います。私は祖父母に育てられました。私の祖母は私を女の子のように育てましたが、一人で何でも出来るように教えてくれました。それから私の祖父は私を釣りに連れて行ってくれ、男の子のように育てました。祖父は私のことを男の子呼ばわりすることもありました。だから、それが私にとって男の子と女の子の間の障害を超える為のおそらく助けとなったのでしょう。何故なら私の受けた教育には障害はありませんでしたから。例えば、私は生まれた村を離れた時、13歳でしたが、普通はあり得ないことでした。そして14歳で私は自立したのです:街で私は小さな部屋を借りました。それは想像も出来ないことでしたが、私の祖父母は私の好きなようにさせてくれました。彼らはいわゆる『リスク』を負ったのです…彼らが周りから言われていたことは、そのような自立を許されているのは男の子達しかいない、ということでした。それが女の子達の発展のブレーキとなっていると思います。フラン・パルレ:アフリカの女性にとって作家になることはあまり普通ではないのですか?ファトゥ・ディオム:そうです。それよりも私はジャーナリストかフランス語教師になることを夢見ていたからです。そもそもそこから私の文学の学習が始まっているのです。私は現代文学の研究をしました:私の夢は哲学か文学の教師か、ジャーナリストでした。それに書く事は、正に私にとって酸素ボンベであり、避難場所であり、私にとって常に必要なものなのです。いつか物書きになる、などとは全く想像することもせずに私は文章を綴っていました。だから(作家になったのは)正に私の処女作が出版されたからなのです。私には他にも未発表の文章があったので、そんな風にスタートしたのです。フラン・パルレ:批評によれば、あなたはアフリカのおとぎ話の文体にとても近い、あるいはその影響を受けていると言われていますが….ファトゥ・ディオム:違います(笑)それはヨーロッパの方々がそう言うのが好きなので、それには正直言って、イライラさせられます。何故なら私はこれでも文学の研究をしてきましたし、おとぎ話のテクニックは中編あるいは長編小説とは全く関係がありません。それはただ、アフリカ人が文章を書く時、比喩的な表現を用いるので、彼ら(ヨーロッパ人)は:それはおとぎ話だ、と言うのです。それは違うでしょう、パスカルの『パンセ』にも格言がありますが、それをことわざとは言わないでしょう。それは少し安易な異国趣味の批評だと私は思います。それは私達の原点がどこにあるかを見極めようとしないことです。私自身は、正にアフリカ文学や、フランス文学であろうと思われる原点を持ち合わせています。私はストラスブール大学で学びました。本当に、私はフランス(の大学)で一般に教えられている文学を学んでいるのです。従って、もし私がマリー=シャンタル•ミュレールという名前だったら、私はおとぎ話の文体だ、等とはいわれないでしょうね(笑)。フラン・パルレ:正に、肌の色や、あなたの名前はフランスにおける作家としてのキャリアにどういう作用がありますか?それは影響しますか?ファトゥ・ディオム:たぶん先ほどの視点で物を分析する人たちには。私自身は、作家というものは、まずは自身の文体があって、テーマがあり、世界を感じる独自の方法があると思っています。私の祖父は漁師だったでしょう、私はヘミングウェイの『老人と海』を読んで祖父の置かれている状況が良く理解できた、という感じです。だから、ヘミングウェイのメラニンの割合は、彼の文章を私が理解するのには全く関係のないことです。ただ彼が私に人間ドラマを語ってくれたことが、私が祖父の人生をより良く理解することの一助になった、というだけです。そして作家は、本当の作家というのは、出自や肌の色だけで読むのではないと私は思います。私の文体におけるメラニンの役割はわかりません。フラン・パルレ:あなたはセネガルのご出身ですね。セネガルでは複数の言語が話されていますが、あなたの主言語はフランス語ではないですね。ファトゥ・ディオム:私自身は、既に私の想像力を発展させてくれることが出来る言語、私にとって最もコミュニケーションがとれる言語で書いています。それに私はフランス語にコンプレックスは全くありません。私には他者の言語を借りたという気持ちはないのです。これは完全に私の言語で、私の文化的遺産の一部です。私はセネガルでフランス語に出会ったのです。祖国に存在していたかもしれないルサンチマン(遺恨)と自分は切り離して考えています。年長者はフランス語を外国の言語として話す事が出来ました、何故なら彼らはそれを強制されたからです。私は、学校に行くことを選び、自発的に学校へ行きました。誰も私を登録してくれませんでした。私はフランス語を習いたかったし、私はフランス語を書き続けます。私にとって、フランス語はセネガルにおける歴史的遺産であり、私の周りでそれ(が話されるの)を聞いてきました。それに加えて、それにはもう一つの利便さがあるのです。セネガルでは複数の言語が話されているため、私達は数カ国語を話す習慣があります。私はセレール語を話しましたが、ウォロフ語も、それからトゥクロール語、プル語も話しました。このように、これら全ての言語は同じ地理的スペースにおいて同時に機能しているのです。ウォロフ語は私にとっても外国語です。これは私の母国語ではありません。しかしながら、セネガル人の80%がウォロフ語を理解します。でも行政においては、フランス語が私達の公式言語であるので、そうはいっても最も適切とされている言語なのです。私達みんなが、混ざり合うあらゆる民族がお互いにコミュニケーションを取るためには。そのせいもあって私は全くギャップを感じない、と言ってもいいでしょう。フラン・パルレ:3月7日に東京でのイベント、ファム@トウキョウでは、どのようなテーマを展開されるのですか?何について話をされる予定なのでしょうか?ファトゥ・ディオム:さて私ですけれども、お招きをいただいているディベートは「国籍、国境を超える女性の生き方」という題なので、私は本当にこのテーマが気に入っています。とても気に入っているのは、それが当初から私の文体に通っている筋のようなものだからです。正にフランス語については、元は、歴史的に、私の国の言語ではなかったこの言語で書くということは、私がフランスに住んでいるからでもあるのです。私は一つの言語で、また一つの地理的エリアで文章を書くのです。そのエリアは私が生まれた所ではありませんが、私が適応した場所なのです。そして書く事はあらゆる国境を超えることが出来ると私は思っています。人工的な国境は沢山ありますが、それは人の内的探求とは何の関わりもないことです。2010年3月インタヴュー:プリュウ・エリック翻訳:粟野みゆき
ファトゥ・ディオム、小説『大西洋の海草のように』著者
投稿日 2010年3月1日
最後に更新されたのは 2023年5月25日