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La francophonie au Japon

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マテイ・ヴィスニユック、劇作家
投稿日 2010年5月1日
最後に更新されたのは 2023年5月23日
マテイ・ヴィスニユック:新時代の幕開け
 
マテイ・ヴィスニユックは2009年に劇作家協会(SACD)ヨーロッパ賞とアヴィニョン演劇フェスティバルのオフプログラムでのプレス賞をダブルで受賞した劇作家である。彼は数年前から東京の演劇集団「風」との間で、作品依頼、フェスティバル出品、十数本の作品の邦訳等、真の協力関係を築いている。
 

フラン・パルレ:あなたはシュールレアリスム、ダダイスム文化に育まれた作家でいらっしゃいますね。
マテイ・ヴィスニユック:そうですね、そうとも言えます。私が生まれたのは作家が社会主義レアリスムに適応するようにとの公的圧力のあった時代のルーマニアだということを忘れてはいけません。故に、その反動で、とても早いうちに、12、13、14歳の頃、私は全く社会主義レアリスムが好きではないということに気づいたのです。レアリスム全体を、憎み始めていました。私は、私の世代の皆のように、あらゆるものの影響を受けました。社会主義レアリスムとレアリスムを除いては。だから本当に、子供の頃、私は高校時代も、もう少し後になってからでも、夢幻の芝居や、表現主義の芝居、シュールレアリスム文学、ダダイスム、といった全ての現代の流れが大好きでした。言ってみれば、意表をつくもの、ファンタスティックなもの、考えさせられるものは全て、私を楽しませてくれました。もちろん私は憑かれたようにシュールレアリスト(の作品)や不条理な芝居を読んでいました。私はカフカ、ロートレアモンに育まれました。チェーホフにも影響されました。なぜならチェーホフは独特で、特別だからです。それからかなり後になって、私はレアリストの芝居に接するようになりました。フランスに来て私の昔の不安が消えた時に、です。そんなわけで、私は文化的レジスタンスの申し子なのです。東ヨーロッパの国々においては、文学は告発の手段であり、異論、哲学的考察を表現できる完全な自由空間であり、または文学的なディベートによって鍛えられた、一元的な考えにとって代わるものであったのです。私は20年以上にわたって詩を書いていました。それから劇作に移行しました。今でも私はあらゆるものを少しずつかじったと言えるのですが、それでも私の文学において中心となるものは、詩的な面です。詩は今までずっと私と共に歩んできました。今でも、私が戯曲を書く時、詩的な次元から決して離れることはありません。なぜなら詩は、やはり、この世界の謎を解き明かす道具であると思っているからです。
 

フラン・パルレ:あなたはルーマニアを離れてフランスに行かれましたね。なぜフランスを選ばれたのですか?
マテイ・ヴィスニユック:1987年当時、私がルーマニアを後にした時、私は検閲に対する長年の戦いで正直、疲れきっていました。私は陽動作戦に出て、検閲を避けようと努めながら、何行かの句や、いくつかの文章、詩などを発表していました。それに当時は酷い時代でした。不条理と言っていい程でした。それでも脱出できた時、私は幸せでした。さらにはフランスが当時私を破格の条件で受け入れてくれたこともあります。私は専門研究課程を修め、博士課程に入る為に奨学金の恩恵を受けました。それに最終的に、ルーマニア人にとってのフランスは、言ってみれば、精神的祖国のようなものです。特に、忘れてはならないのは、ルーマニア語はラテン系言語であり、現代のルーマニアはフランスにかなりの恩があります。19世紀には複数の世代がルーマニアでこのフランス文化に鍛えられ、育まれたのです。だいたい私がフランスに来た時、どれだけのものが私の慣れ親しんだものかということを思い知りました。私は既にフランス文学によって影響されていたのです。私はルーマニアに居た時、ルーマニア語で読んでいたのですが、そうは言っても物語や、フランス文化、その構造には変わりなく、それは浸透したのです、つまり一つの国に、その文化に恋してしまったと自覚したのです。なぜなら子供時代からすでに、深い何かに、価値観の自由のニーズに対応している何かに染まっていたからです。だから、ひとたびフランスに来た時には、私はまるで自分の家でしっかりと自分を取り戻したようでした。もちろん、私は政治的難民の身分を取得し、フランスに自宅を構えていました。フランスは2世紀以上にわたってヨーロッパの模範であり続けました。私がルーマニアを去った当時、フランス語は第一外国語として学校で教えられていました。不思議な事に、そこで、もしここで許されるなら、私は一つ批判をしたいのです。社会主義が崩壊する前、鉄のカーテンが崩壊する前は、今よりももっとフランスは東ヨーロッパ諸国に存在していました。フランスが向こうに発信していたイメージはもっとずっと存在感がありました。本、映画、音楽…私の子供時代、青春時代は常にフランス映画を観ていました。でもまあ、グローバル化がそういったものを少し壊したのです。俗悪なものや、過剰なものが競合する時代に入ったのですが、私が今も好むこのフランスは、87年より前に、私がルーマニアで教育を受けていた年には既に存在していたのです。
 
フラン・パルレ:あなたの作品は全て直接フランス語で書かれるのですか?
マテイ・ヴィスニユック:私がパリの東駅に降り立った時から、私はフランス語で書く努力をしようと決めたのです。私は自分の戯曲を翻訳することから始めました。なぜなら87年にルーマニアを離れる前に、それでも結構(作品を)書いていたからです。思いおこせば、それは社会主義崩壊の2年前だったのですが、当時はその崩壊は分かりませんでした。そして私は真面目な生徒がするように、私が既にフランス語で知っていることを深めることから始めました。私はフランス文化の方がフランス語より良く知っていました。なぜならルーマニアではフランス語は使わなかったからです。でもまあ、ラテン語に影響を受けた者には、語彙に適応するのは問題ありません。私達ルーマニア人にとっては、むしろ発音の方に問題があります。私達はイタリア風に発音します、ご存知でしょう、感じられるでしょう、私のアクセントはかなり強いのですが、私達はフランス語についてはかなり早くに自分のものにできるのです。それを深め、好きになる事が出来るのです。私はある時からフランス語で書き始めました。国際的に流布している言語で書く機会を得るという満足感を私は得たのです。日本語に翻訳されている私の作品の殆どは、フランス語の作品から訳されたものです。私の書いた他の作品で、例えばイラン、トルコ、スウェーデンやロシアで上演されたもの、さらにはルーマニアの近隣諸国で上演されたものでさえ、フランス語からの訳出でした。それからもう一つ、フランス語は劇作家としての私をとても鍛えてくれました。私は、やはり自分の言葉でない、母国語でない言語に浸らざるを得なかったのです。従って、この新しいこと、この未知の大海の前に、謙虚さを取り入れなければならなかったのです。だから、私は少ない言葉で多くのことを言わざるをえなかったし、このとても興味深い構造に基づいて書いてみる、つまり最小の方法で最大の効果を得るように努めたのです。私は殆どフランス語のおかげで私の作品において、間合い、幕の数、場面、登場人物に、より多くの部分を割り当てることを学びました。そして私は、今や私がまずフランス語で書いたものをルーマニア語に訳すという殆どある意味、皮肉な状況にあります。
 

フラン・パルレ:東京でこれから上演される予定の作品『戦場のような女』についてお話していただけますか?

マテイ・ヴィスニユック:ええ、私はこの作品が東京で上演されることをとても喜んでいます。なぜならこれは普遍的な影響力があるからです。私が実際の状況、つまりボスニアのおぞましい戦争中に女性たちがレイプされたということを基にしているにもかかわらず、です。ヨーロッパのど真ん中の、ボスニアで、ユーゴスラビアの崩壊の際に、この残虐な戦争が92年から96年まで続いたのです。レイプは武器になり、軍事上の戦略になり、何千人という女性が民族上の理由、あるいは軍事上の理由でレイプされたのです。その目的は、対立民族を不安定にさせ、致命的な打撃を与えることでした。そこで、私は思ったのです。これは素晴らしいテーマだ、私はかなり情報を持っているのだから一層このことを語る必要がある:私は相変わらずRFI フランス国際ラジオ放送のジャーナリストであることだし。当時、外電が押し寄せる波のように来て、私はその国、サラエボや他で起こったことについて相当な情報を持っていたのです。私は、作者としてはもっとジャーナリストのように行動するべきだと思いました。だから私は女性たちに語らせたくてこの戯曲を書いたのです。戦争や国粋主義の狂気、普通の人々がどんな理不尽な状況によって乱暴者、虐待者、野獣になっていくのかを女性たちが語るために。私はこの20世紀末の只中に起きたこの残虐行為の仕組みを理解したかったのです。
 
2010年5月
インタヴュー:エリック・プリュウ
翻訳:粟野みゆき
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