フラン•パルレ Franc-Parler
La francophonie au Japon

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アルチュール・アッシュ、歌手
投稿日 1998年11月1日
最後に更新されたのは 2017年8月25日
Arthur H.との出会い
 
ユーゴの娘アデル•Hを思わせる名前のこの歌手は、他ならぬジャック・イジュラン(J.Higelin)を父に持っている(比較はここまでにする)。フェスティバルハル1998に参加するために東京に来たArtur H.はこの機会に新しいアルバムを出した。本誌のインタビューでもこのアルバムを紹介している。
 
フラン・パルレ:今回はどのくらい日本に滞在しますか。東京の印象は?
 
Arthur H.:全部で一週間。普段通りです。残念ですがいつも短い期間しかいられません。東京はイマジネーションを与えてくれる街だと思います。エネルギーを与えてくれます。少なくとも僕にとってはね。僕は東京が好きです。
 
フラン・パルレ:日本の徴収の印象はいかがですか?フランスの聴衆との違いは?
 
Arthur H.:一般的に聴衆はどこでも似通っていると思います。日本の聴衆は好きですよ。注意深くて好奇心がありますから。
 
フラン・パルレ:あなたの音楽の経歴のなかで主な出来事は?
 
Arthur H.:僕は15歳のときに初めてピアノに触れました。電撃的なショックでした。
 
そしてそのまま貼り付いてしまいました。その後はお決まりのコースです。試行錯誤とグループ作りを重ねた末にまったくアコースティックな形式にたどり着き、フランスのシャンソンに戻ってきました。そこで2、3ヵ月で一通りのレパートリーを書き上げたんです。当時は20歳くらい、いや21、22歳でした。友達のブラッド・スコットに出会って、まず2人、そして3人のグループを作りました。初めてツアーに出てコンサートを始めたのは、アリアンス・フランセーズと組んで東アフリカを回ったときです。20日かけてマダガスカルとエチオピア、ケニア、マラウィを回りました。それ以来ずっと続けています。外国でもフランスでもずいぶん演奏しました。ぼくはレコードも作ったし、普通のコンサートの枠をはみ出すようなショーもしました。演出を凝らして音楽を演劇化したんです。ずいぶんいろいろな実験をしました。
 
フラン・パルレ:ピアノ以外の楽器は演奏しますか?
 
Arthur H.:舞台で3年前から電子ピアノを弾いています。クラシックピアノの音を変えてみたかったから。音を別なアプローチでとらえてみたかったからです。でも家ではまだずいぶんピアノを弾いていますよ。日本では大正琴を使ってみました。キーに触れると弦がはじかれます。音がとても気に入ったのでまた使ってみたいと思います。
 
フラン・パルレ:あなたのレパートリーはジャズに近いし、英語圏の、北アメリカの文化に近いでしょう。英語で歌いたいと思いませんでしたか?
Arthur H.:僕が英語で話すのを聞けば、なぜ英語で歌わないのかわかりますよ(笑)。
 
フラン・パルレ:『トゥ−ボン法』についてどう思いますか。ラジオでのフランス音楽の放送枠ですけど。
Arthur H.:この問題はちょっと込み入ってますからとくに意見はないですね。規制をすべきかどうなのか。もともとは力がないからこうなったわけですが、たぶん良い面もあるんでしょう。どちらにしても僕にとってメリットはないですね。というのはちょっとマージナルな歌はラジオでは必ずしも伸びないからです。ラジオではむしろゴールドマンやカブレルなどを余分に流すでしょう。でもFMラジオはこの法律を上手くかわしていると思いますよ。
 
フラン・パルレ:「ヴィクトワ−ル・ド・ラ・ミュージック」賞を受賞されましたね。そのことでかなりプラスになりましたか?
Arthur H.:ええ、男性新人賞でした。これで得られたことと言えば唯一、特定の時期にその時の仕事が認められたということだけですね。これが長続きするわけでは全然なくて、2年経てばみんな忘れていますよ。
 
フラン・パルレ:さっき数カ月で歌詞を書いたと言いましたね。今はどうですか。時間をかけていますか、それともやはり同じくらい早く書きますか?
Arthur H.:いいえ。残念ですがデビューの頃のように自然に歌詞が出てくることはあまりありません。その頃はナイーブで雑念がないので何でも簡単に出てきました。後になるともっと大変になります。
 
フラン・パルレ:自分の仕事の変化を意識しますか。テーマや楽器の選び方の変化などは?
Arthur H.:ええ。常に変わっています。良くなっているのか悪くなっているのかはわかりませんが、いずれにせよよりプライベートでより身近なものをいつも追求しています。でも人は失敗をしながらも学んで行くものですから、僕もずいぶん失敗します。僕にとって音楽とは何よりも一つの探求なんです。
 
フラン・パルレ:これまでずいぶんツアーに出て何百回もコンサートをしましたね。これからも続けたいと思いますか。
Arthur H.:これまで結構やってきたし、ツアーはもうたくさんだと思うこともあります。2年前に初めてそういうことがあって、一年間休みました。今も同じような感じなので1、2年休まなければなりません。普通の生活、家庭生活がしたいんです。
 
フラン・パルレ:日本で作られた「ラム−ル」というタイトルのアルバムについて少し話してくれますか。曲はどうやって選びましたか。
Arthur H.:まずコマーシャル音楽をつくる機会があったんです。これがうまくいったので歌詞を全部書くように頼まれました。メロディーが気に入っていたので喜んでやりました。また日本に演奏に来たとき、会社の人たちが日本でしか出ない未発表の曲を2つ入れた選曲集を出してはどうかと提案してくれました。ヴィゴの映画のために作った曲と、このコマーシャルから作った歌です。こうしてみると、自分の一番好きなものを無意識に、距離をおいて選んだ事になりますね。
 
フラン・パルレ:映画音楽は歌を書くのとは違っていましたか。
Arthur H.:はい、少し。これはラストのクレジットの音楽だったんです。イギリス人のジョン・テンプル監督の要望は、とてもフランス的でかつ現代的なものにして欲しいということでしたが、指示はそれだけでした。だからそれを守るようにしました。
 
フラン・パルレ:音楽の他にどんなことをするのが好きですか。
Arthur H.:音楽以外の主な活動といえば、新体道という日本の武道です。これは真剣にやってます。これと家族です。妻と娘です。
 
1999年11月
インタヴュ−:エリック・プリュウ
大沢信子訳
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