ペスト&コレラ
パトリック・ドゥヴィル著
辻由美訳
Peste et choléra de Patrick Deville
みすず書房
価格:3400円+税
ISBN978-4-622-07838-8
本書は、ペスト菌(Yersinia pestis)の発見者であるアレクサンドル・イェルサンの生涯を題材にした長編小説である。
イェルサンは1863年、スイス・ヴォー州にうまれ、1943年にヴェトナムのナトランで80年の生涯を閉じた。細菌学者パストゥールの作ったパストゥール研究団の一員としてペスト菌を発見し、ペスト患者の治療にも成功している。しかし、それだけではない。彼は、科学者にして探検家であり、農業、牧畜、園芸、天文学、通信技術、気象学などにも興味を持ったユニークな人物であった。また、なにごとも実際に触れてみなければ気が済まない徹底した実践家でもあり、行動家であった。ドイツ、フランス、フィリピン、ヴェトナム、カンプチア、中国、インド、マダガスカルと、彼は冒険に彩られた生涯を送ったのであった。
『ペスト&コレラ』は、そんな異端の人、イェルサンの生涯を描いた作品であるが、一般的な「評伝」とはおよそかけ離れた作品である。本書は、ただ単にイェルサンの人生を描くのみではなく、徹底した取材と斬新な技法を用いながら、彼が生きた100年前の世界の様子や同時代の人々、そして生物学・細菌学史をも描いてみせるのだ。その結果、本書は、評伝としてのみではなく読み物として楽しめるものとなっている。
パストゥール周辺の人々はもちろん、詩人ランボー、作家セリーヌ、北里柴三郎まで登場する、破格の評伝であり、読書の喜びにみちた「冒険」小説である。
ベケットのアイルランド
川島健著
水声社
価格:4000円+税
ISBN978-4-8010-0014-8
サミュエル・ベケットは、アイルランド生まれの劇作家であり、小説家である。1937年以降、フランスに住み、第二次世界大戦後は主にフランス語で執筆した。戯曲『ゴドーを待ちながら』や、小説『モロイ』、『マロウンは死ぬ』、『名づけえぬもの』の三部作など、自己の存在理由を失われたあとの現代人の不安や孤独を描いてきた。前衛的な作品を次々と生み出した彼は、現代文学を語る上で欠かすことのできない、最重要の作家の一人である。
戦後はフランスに住み、フランス語で執筆したベケットであるが、その作品において繰り返し描かれる、果てなき彷徨や逡巡といったテーマの原点は、故郷アイルランドにある。ベケットが過ごした20世紀前半のアイルランドは、激動のただ中にあった。1916年、イギリスからの独立を求める共和主義者たちが起こしたイースター蜂起を皮切りとして、度重なる戦争や内戦を経験してきたのである。彼の生きたアイルランドは政治的、文化的な主義主張が入り乱れる戦いの場であった。ベケットは、そんなアイルランドを「無人地帯」と呼んだ。「無人地帯」とは、様々な信条とイデオロギーが交錯する場、誰のものでもなく、したがって誰のものにもなりえる空間なのである。
『ベケットのアイルランド』は、「無人地帯」をキーワードに、ベゲットの初期作品群とアイルランドの関わりを探る試みである。ベケットが作品の中で描く登場人物や風景、イメージは複雑な力学をその背後に持っている。本書は、そんなベケット作品の複雑な謎を解く重要なヒントを与えてくれる。