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2004年7月 VUETHEOROS06 Vue Theoros 現代の寓話
投稿日 2004年7月7日
最後に更新されたのは 2015年6月25日
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べノ・ベッソン演出『コーカサスの白墨の輪』(B.ブレヒト作)
松原道剛
 瞳を閉じた幼子が女性の手に抱かれている姿がパステル調で写実的に描かれた幕が上がると、三方を隙間のある黒い縦長のシートで囲われた舞台には、両袖から建物の一部の入口だけがこの中庭に迫り出してきたように、天幕でつくられた下手側の教会門と上手側の宮殿のアーチ門があって、グルジアの民族的な衣装を纏った多くの人々が、それらからせわしなく出入りしている。
 コルホーズの序章がカットされて、それらの人々のなかから歌手というより数人のコロスが出てきて、声を合わせて囁くように、これから始まるふとっちょの侯爵カツベキによる謀反の物語の状況を説明する。原作では劇中劇の始まりで、あまりにあっけないと思える領主暗殺の謀反は、もちろんこの作品の主題ではない。
 そんななかで、マスクを被った役者たちが、交替して受け持つコロスたちの囁きやら、カツベキの領主に対する幇間ぶりや纏足を履いたような爪先歩きやら、また医者や建築家の職業的了見の狭隘さやら、そして領主暗殺後の逃避のために財産目録ばかり点検して幼子である自分の子供を置き去りにしてしまう領主夫人の不可思議さなど、登場人物たちの奇妙な仕草や茶化したような台詞回しに対して、客席からは皮肉笑いでも哄笑というのでもない、乾いたむしろ明るい笑いが起こっていた。
 謀反のどさくさのなかで、召使いのグルシェは、任務だからと領主夫人を護衛して戦場に出かけるというシモンを石頭だと非難しながらも、彼と婚約を取り交わし、彼から母親の形見の十字架を受取る。みずからも石頭に違いないこの召使いは、中庭に残されてしまった篭に入った赤ん坊を保護して連れ出してしまう。
 理解しがたい混乱の世において、若い娘が一人で生き延びるのにも困難のなか、自分の身の破滅をも承知しながら、ナイヴテに満ちたグルシェは赤ん坊を抱え、その勇気と機転と力強さによって北の山地に逃げのびる。舞台に次々と登場する農家や森林、それに氷河など、さまざまに工夫をこらし簡略化された装置が、また観客に笑いを誘う。やっと兄の家にたどりついたグルシェは、冬が過ぎて春になる前に、兄嫁によってそこを追い出されそうになり、名目だけの「夫」が必要だという兄の計略は、結婚式に続いて新郎の葬式を挙げるという瀕死の相手を探し出してくる。
 そんななか舞台の奥から青い布が流れ出し、川となって、成長したミシェル(ミヘル)を遊ばせているグルシェは、対岸に戦争から帰還してきたシモンに出会う。しかし、彼女は二人のあいだには何もかわっていないけれど、自分の名前が変わったことについての説明を婚約者にすることができないし、シモンには自分の子ではないと告げながら、領主の子を探してミシェルを連れ去ろうとする胸甲騎兵には自分の子だと告げる。
 休憩後の舞台は、領主アナシュヴィリの首が跳ねられた時点にもう一度時計の針を戻して、それぞれに、それぞれの歴史=物語があることを示すかのように、裁判官になるまでの飲んだくれのアツダクのもうひとつの物語=歴史が語られる。村役場の書記だったアツダクは、ボロを纏った避難民となって追われている大公を助けてしまう。そのことを正直に申出たアツダクは、乱世におけるカツベキのもと、ふざけた胸甲騎兵たちによって裁判官に押しやられてしまう。居酒屋に据付けられた赤い布を背景にした巨大な判事席。相変わらず飲んだくれているアツダクは、その椅子のごく片隅に浅く斜めに腰をかけながら、小学生のように床に届かない足をぶらつかせている。まるで、彼自身が裁判官の権威をあざ笑うかのように。それでも彼は、出鱈目であっても正当な裁判を行い、人々の信頼を獲得していく。
 そして、最終場面で、グルシェの物語とアツダクの物語が結びついてひとつの終末を迎える。謀反の鎮圧によ って体制が復活した現在、領主の子ミシェルを盗んだと領主夫人に訴えられるグルシェ、それを裁くアツダク。アツダクはつねに飲んだくれていても、自分が混乱の世における偶然の裁判官でしかないこと、秩序の回復によ って、裁判官の地位を追われるどころか、民衆的に過ぎないにしろ自分が下した反体制的な判決によって、訴追されかねないことをもよく知っている。それゆえにこそ古くは中国の言い伝えである「白墨の輪」の逸話を持ち出して、子供を育ての母親のもとにおいておく判決を下す。しかし、その自分の「正義」が、その場限りの正義でしかないこともよく知っている。そして、自分の判決が社会状況などのたまたまの偶然から成立したこともよく知っている。ちょうど、あらゆる物語=歴史における「正義」がそうでしかないように。
 グルシェ(C・セロ)やアツダク(C・エック)の豊かさに満ち溢れた演技、役者全員がつけていた顔の上半分を隠す薄いマスク、あるいは劇中途絶えることなく生じていた客席の笑い、それらをはじめとする今回の舞台のさまざまな要素によって、晩年のブレヒトと仕事をしていた演出家のベノ・ベッソンは、そのことに固執してそこに留まるというようなことはなく、この作品を現代の寓話に仕立てあげるという、新たなる取組みによって、ブレヒトに対する遥かなる地平を提示していたように思えた.
(2001年3月29日、コリーヌ国立劇場)

テオロスフォーラム2004年連続セミナー『ブレヒトの写針詩』(講師岩淵達治)
http://www.ne.jp/asahi/theoros/forum


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