フランスは農業が盛んな国として知られています。フランスのお酒や食文化に関して語らせたら止まらない、という人も多いでしょう。そんなフランスは、各地方によって多様な農業と食文化の顔を持っています。その地方の多様な農業や食文化は、地域の農業者をはじめ、生産・加工・流通・消費に関わる様々な人々によって支えられていることは言うまでもありません。私は、2002年春にフランス・アルザス地方に留学した際、幸運にも地域で産直(vente directe de produits de la ferme)を営む農家、クライン家にて研修生として2ヵ月間お世話になるという機会に恵まれました。今回は、そこで出会ったフランス農業のローカルな現状を紹介したいと思います。アルザス地方といえば、風光明媚なワイン街道沿いにて産出されるリースリングやゲヴルツラミネールに代表される白ワイン、豪快な伝統料理であるシュークルートなどが世界的に知られています。そんなアルザスには、ライン川流域からヴォージュ山脈に至るまで、沖積土の広がる肥沃な土壌に恵まれ農業に非常に適した沖積平野、ワイン栽培に適した丘陵、畜産に適した山間地域などがあり、多様な農業が発達しています。アルザスでは、ワインや穀物栽培だけでなく、野菜、ホップ、タバコ、砂糖大根、アスパラガス、ジャガイモといった様々な作物を特産物として挙げることができます。また、畜産も盛んで、酪農製品をはじめとして牛、豚、鳥、羊などの肉も多く生産されています。これらの農産物は、古くからアルザスの農家の人々の手によって集約的・複合的に作られてきました。これからお話するクラインさんの農家は、州都ストラスブールの近郊約10㎞のところにあり、肥沃な土壌に恵まれた平野のちょうど真ん中あたりに位置しています。クラインさんの農家は、約40haの農地をもち、内35haは、牛・豚・家禽類の餌や敷きわら及び畑にまく堆肥として利用される干草、小麦、トウモロコシの栽培に充てられます。残りの2haは、産直や自家加工に充てられるジャガイモ、残りの1.6haは生育したらすぐに店棚に並ぶことになる計40種類にも及ぶ生鮮野菜の栽培に充てられています。家畜の構成は、乳牛36頭、豚60匹、卵用雌鶏300羽、鶏・ほろほろ鳥・あひる・七面鳥といった食肉用家禽類が2500匹となっています。これらは農家で栽培される穀物をベースにした自家製の配合飼料により育てられています。現在、クラインさんの農家は、協同組合への牛乳販売の他に、自分の農家の建物の中に「農家の伝統(Tradition Fermière)」という小さなお店を設けて、地域住民を相手にした産直経営を行なっています。販売されている作物は、鶏肉・豚肉の加工製品の他、乳製品、生鮮野菜、果物、ジャム、お惣菜など多岐にわたります。商品はほぼ全て自家製で、乳製品・果物など一部の商品については、地域の農家との契約による委託販売でも取り扱っています。そんなクラインさんの農家が、このような自家加工・産直による農家経営を「農家の伝統」というお店とともに本格的に始めたのは、1994年頃でした。それまでのクライン農家は、牛乳や穀物を定期的に協同組合に出荷して、あとの作物は菜園で自給して過ごすという比較的一般によくみられる形の一中小農家として生計を立てていました。そこでは、協同組合を介して、大市場に向けられた際限のない生産と出荷が続けられていました。しかし、そのような経営形態は、戦後1945年から1974年の経済危機まで30年間続いた高度経済成長に伴って都市の消費者人口が急激に増大し続けるという特殊な状況の中でのみ可能とされていたものでした。その裏では、穀物・乳製品などの過剰生産の問題は着々と積み上げられてゆきました。そして、経済危機の10年後、今からちょうど20年前にあたる1984年、当時のECによって、過剰生産の問題を背景とした「牛乳生産割当(quotas laitiers)」の政策が打ち出されます。この政策によって、牛乳を主な現金収入の手段としていた多くのフランスの中小農家は経営困難に陥りました。そこで、各農家は経営の方向転換を行うことを余儀なくされたのです。クラインさんの農家もその例外ではありませんでした。当時、経営を担っていたクライン夫妻(現在定年を迎えている)は、手回しのバターチャーンやチーズ作りの器具を購入し、市場に出荷できなくなった分の牛乳の自家加工・直売を始めました。しかし、乳製品の加工作業が要する手間は、一家族の中小農家にとっては過剰な労働負担としてのしかかりました。さらに、92年EUの発足とともに、ヨーロッパで新たな食品加工・販売に関わる衛生基準が「ヨーロッパ単一議定書(Acte Unique Européen: AUE)」によって定められたことで、中小農家が自主的に行う農産物加工・販売活動にも高いハードルが課されるようになりました。そのような危機的状況の中、クライン家の若息子兄弟2人が計画を立てて始めたのが、農産物加工・直売店「農家の伝統」の設置を伴う、現在まで行われている生産・加工の多角化と産直による新たな農家経営の試みでした。この新たな農家経営の試みは、狂牛病の発生、食品トレーサビリティの不在、大量生産・流通システムの定着に起因する食品の質の低下といった問題に対して高い危機意識を抱いている消費者のニーズにも応え、地域住民の間でも好評を博しています。この試みは、消費者にとって失われつつあった、フランス語で「テロワール(terroir)」と呼ばれているような、地元の食材で地元の人間が地域性を生かして作ることで生まれる「土地の味」を呼び起こしたり、村の旧住民である農家の生産者と都市から来た新住民である消費者との間の日常的な交流の場を提供することにも一役買っています。こうして危機的状況からの脱出を果たしたクラインさんの農家でしたが、現在彼らは2つの新たな問題に直面しています。1つ目は、ちょうど2004年5月1日に25ヵ国への拡大を果たしたばかりのEUによる牛乳の市場価格の値下げの決定に関係しています。産直経営に切り換えたとはいっても、クラインさんの農家では、牛乳の協同組合への出荷により得られる収入はまだ農家の全収入の約半分を占めているため、この価格低下により受ける打撃は未だ大きいのです。今、経営を担う若息子兄弟は、長い間続けてきた乳牛の飼育をやめてしまうべきか否か、という決断に迫られています。2つ目は、クラインさんの農家で栽培の多角化、自家加工、産直を行うだけでなく、農薬や化学肥料の利用を排除した「オーガニック」に近い方法で生産・加工を行なっていることに関わっています。オーガニック農業は、現在EU諸国内でも注目が高まっており、オーガニック農家として検査・認証を受ける農家も年々増加してきています。しかし、いわば「総合農家」としてきわめて多種類の産物を取り扱うクラインさんの農家にとっては、加工製品も含む全ての生産物について検査・認証を受け、オーガニック農家として信用を維持するためには費用がかかりすぎるという問題が存在します。そのため、クラインさんの農家はオーガニックのラベルを取得することができません。クラインさんの農家は、大胆な革新によって農家再生を試みています。今後、地域の中でもこのような多様な試みによって変化してゆく農家が増えてくるものと考えられます。そのような動きは、かつては同じ作物を地域の特産物として出荷して生計を立てていたそれぞれの農家が、個性を発揮して生産をある特定の農産物に専門化したり、自分の農家を教育農場や民宿、或いはレストランとして市民に開放して経営を行うといった活動の多様化として表れています。こうした活動は、フランスでは1988年から各県の農業会議所により運営の始められた「農家にようこそ(Bienvenue à la ferme)」というアソシエーションにより組織的に支えられています。クラインさんの農家も、バ・ラン県の「農家の産物(Produits de la ferme)」という産直部門に名を連ねています。現在フランスでは、数多くの農家がクラインさんの農家のように、戦後急激に進行した食品産業の過度の工業化・市場経済化が引き起こす危機的状況に立ち向かって様々な努力や工夫を重ねています。こうした努力・工夫は、それぞれの農業者自身の生活のためでもある一方で、同時に我々消費者に直接向けられた形で行なわれています。それは、我々現代人の大量生産・大量消費的な食のライフスタイルのあり方に疑問を投げかけています。日本でも、農業と食文化の危機的状況に関しては、フランスと同様或いはそれ以上に深刻であると言えるのではないでしょうか。ここで紹介した農業国フランスのローカルな現状をふまえた上で、日本の状況に目を向けてみると、またこれまでとは違ったものの見方をすることができるのではないかと考えています。2004年参考農家へようこそ(フランス): http://www.bienvenue-a-la-ferme.com/ヨーロッパのオーガニック農業に関して: EUOFA(ヨーロッパオーガニック食品普及協会)村松 研二郎(名古屋大学文学研究科博士課程在籍・EUOFAサポートメンバー)E-mail: m_kenjirom@hotmail.com
フランスのローカルな農業事情 〜アルザスの産直農家〜
投稿日 2004年10月30日
最後に更新されたのは 2023年5月23日