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2005年3月 演劇フラヌリー第10回 マリヴォーの世界 —守輪咲良さんに聞く
投稿日 2005年3月6日
最後に更新されたのは 2023年5月23日

 今回は18世紀フランスの劇作家マリヴォーの作品に集中的に取り組んでいらっしゃ る演出家の守輪咲良さんから、マリヴォーについてのお話をうかがいました。守輪さ ん演出のマリヴォー『試練』(佐藤実枝訳)が3月18日(金)19:00「のげシャー レ」 JR桜木町駅徒歩3分(横浜にぎわい座B1 小ホール全席自由・前売・当日共2,000円)にて上演されます。(詳しくは、ホームページ:http://home.k03.itscom.net/sakura/k...、Tel:03-3726-6887まで。)

守輪咲良さんインタビュー (聞き手 佐藤 康)

−守輪さんはマリヴォーの上演に取り組んでいらっしゃいますが、そもそも、どうい
うきっかけでマリヴォーを取り上げようとお考えになったのですか?

 1972年から82年までニューヨークにいまして、それから帰国したんですが、そのこ ろのアメリカの演劇に対しても日本の演劇に対しても、ギャップを感じていまして、 これからどういうふうに活動していこうかな、と思っていたんです。そこへ、ある先 生が、そういうことであれば、こういう作品があって、日本ではなかなか取り上げら れないんだけれども読んでみたらどうか、と言われて渡されたのが、マリヴォーとゴ ルドーニだったんです。ゴルドーニはイタリア人ですけれども、フランスで活躍して いたんです。マリヴォーとはちょっと時期がずれていますが、だいたい同じ時代の人 です。手渡されたマリヴォーやゴルドーニを次々に読んでいるうちに、是非、やって みたいと思うようになったんです。

 初めて読んだときは、これは朗読劇なのではないかと思うくらい、なにしろせりふ がぎっしり並んでいるわけです。朗読劇だったら私の領域ではない、とも思いました。 ところが説明を受けてみると、じつはイタリア人劇団が上演していたのだということ です。それで初めて興味を持ったんです。

 言葉で語るフランス人作家のものを、身体表現にすぐれていたコメディア・デラル テのイタリア人劇団が上演していた。むしろ、イタリア人劇団のためにマリヴォーは 書いていたのです。驚くと同時に、大変興味を持ちました。

—守輪さんがアメリカで勉強なさっていたのは、おもにアクターズ・スタジオでの心 理的な演技メソードでしたね。それはマリヴォーを上演するときにとまどいの原因に なったのではありませんか?

 むしろ、イタリア人劇団がやっていたということを知って、視点を変えて読んでみ たときに本当にこれをやりたいなと思うようになったのです。当時、メソード演技の 内面重視の演技に行き詰まりを感じていましたし、もっと身体表現を取り入れた演技 が欲しいと思っていたのです。

—コメディア・デラルテのような身体を重視した演劇は、当時の日本では見受けられましたか?

 コメディア・デラルテのような演技は日本では見られませんし、また、言葉を操って人の心の裏を暴くような演劇は、日本でもアメリカでも見られません。

—「マリヴォダージュ」という言葉がありますが、マリヴォーのせりふには独特なも のがありますね。量もすごいし、論理が回転していくようなところがあります。それ をどういうふうに俳優に喋らせるかですが。やはり訓練をしないと、ただちに出来る ものではないと思うのですが。

 初めは分からないことだらけでしたが、体当たりでやり始めました。とにかく私は 「マリヴォダージュ」というものの正体が分かっていたわけではなくて、最初にやっ たときには、このせりふはどういうふうにやったらいいのだろうかと、それはもう、 パズルなんですよね。それで、マリヴォーの研究者であり翻訳者でもある佐藤美枝先 生に稽古場に来ていただいて、いろいろ教えていただいたのが大きな助けとなってい ます。そのうち三人のマリヴォーの翻訳の先生方が公演ごとに稽古場に来てくださる ようになって、稽古を見ながら、せりふを直したり、役者が分からないところを解説 してくださるようになったんです。そうやってみんなで作り上げていったんです。

—その作業の結果が『新マリヴォー戯曲集』(大修館書店)という本になっているのですか?

 いいえ、私がマリヴォーを始めたのは『新マリヴォー戯曲集』の第1巻が出た後で す。第1巻だけで、第2巻がなかなかでないんですが、その前は白水社の『マリヴォー /ボーマルシェ名作集』ですか、そのくらいしか翻訳がないんですよ。で、私が上演 したものは未出版のものが多く、ほとんどが本邦、初訳初演です。そういうこともあっ て先生方が稽古場にいらっしゃっていたんです。訳されたものを、実際に役者が語っ てみるとまた、違った世界が見えてくるみたいですね。お互いの共同作業でした。

—今まで取り上げてこられた作品は?

 シリーズで第10弾までやりまして計11本(参照ホームページ)と、そのほか、ワークショップで取り上げたものが1本あります。

—あまり知られていない、短い作品も取り上げていらっしゃいますが、いちばんの成功作を選ぶとしたら、どれですか?

 ううん、難しいですね。まあ、作品を「買って」くださったところがあった、とい う意味では『奴隷島』でしょうか。日本18世紀学会に招かれて慶応大学で上演させて もらいました。関西の桃山学院大学でも上演しました。

—この3月に上演される『試練』はどういう作品ですか?

 パリの裕福な商人の息子がいまして、莫大な遺産を相続して、田舎に地所を買うわ けです。そして、その土地の検分にやってきたのですが、大きな病気にかかってしま い、そこの管理人の娘が看病をしてくれました。彼はその純朴な娘をすっかり好きに なってしまい、娘への愛を本心から叶えたいと思うのですが、そう思えば思うほど、 はたして彼女が自分を本当に愛してくれているのかどうか、知りたくなります。愛し てくれているのは分かっているけれども、自分が金持ちだからなのか、それとも本当 に自分という人間を愛してくれているのかどうかを知りたい。そこで彼はパリから自 分の召使を呼び寄せて、パリの大金持ちに変装させ、彼女との結婚を勧め、その反応 を見て彼女の本心をさぐろうとするのです。

—マリヴォーの作品にはよくでてくるテーマですね。本心を確かめるために変装して、 芝居をうつわけですが、相手の本心が知りたくて、いろいろなことを言ったりやった りする。恋の駆け引き、です。そういう世界って、今の若い人たちにとって、どうな んでしょう、この携帯電話の時代に?

 そうなんですよ、だから初めのころ、役者たちは台本の本読みでマリヴォダージュ のやりとりをしながら、じれったいなあってよく言ってました。好きなら好きだって、 はやく言えばいいじゃないかって。何でもスピーディな今の若い人たちと、そういう 感覚のギャップはたしかにあると思いますね。でも、好きな相手の本心を本当に知り たいと思うとき、相手に見せかけるものと、心の裏に隠しているもの、そういった恋 の駆け引きって、今だってあるわけです。好きだって言うか、言わないか。言って断 られるか、言ってOKとなるか、最短距離で結論にいたる世界だけじゃなく、お互いの さぐり合いのなかに、つい嘘を言ったり、見栄をはったり、誤解したり、後悔したり、 現代の恋人たちも昔の恋人たちとやっぱり同じようなことやってます。そういう駆け 引きの世界を知らない人にとって、その面白さは初めは分かりにくいかも知れないで すが、だんだん分かってくると、その面白さ可笑しさも分かってくるんです。

—そういうゲームのルールを共有している社会のなかで成り立っている演劇ですね。

 相手に見せかけているものと、心の裏に隠しているものを暴き出す演劇と言ったら
いいですか。
恋心のなかにあるプライドとかエゴって、じつに滑稽でおもしろいです。自分は傷つ かずに、欲しいものは手に入れたいなど、人の心のなかには、ものすごいエゴが潜ん でいるわけです。「恋愛」を通してマリヴォーが見ていた〈人の心の世界〉はすごい と思います。でも、中学生にだって分かる世界なんです。それくらい、誰でもみんな 心当りのある世界なんですよ。しかも、それを暴いて笑い飛ばそう、というのです。

—フランスのマリヴォーの演出というと思い出すのは、パトリス・シェローの演出で す。シェローはマリヴォーの世界が、同時代のサド侯爵と同じ地平に成立している、 という発想で演出したんです。マリヴォーは相手の心にサディズムを加えていくので す。残酷なマリヴォー像ですね。

 マリヴォーの作品は、これまで繊細優美な宮廷風な恋愛心理喜劇として受けとめら れてきましたが、シェローによって、実はマリヴォーは恋愛のなかに凶暴なエゴを見 ていた作家なのだと知られるようになり、作品の読み直しのきっかけとなりました。

—笑い飛ばす、とおっしゃいましたが、喜劇としてのマリヴォーを考えると、喜劇的 な要素はせりふのほうにあるのでしょうか、それとも身体演技のほうにあるのでしょ うか?

 両方にあると思います。マリヴォーにはいろいろな作品がありますが、おもに人物 は主人側と召使側とに分かれるんです。主人側というのはいつも精神的な葛藤を抱え た存在なんです。恋愛をしても、たがいに素直に打ち明けられず、そのさぐり合いは マリヴォダージュのせりふで笑わせてます。召使はだいたい頭が良くて知恵に長けて いて、ボーマルシェの『フィガロの結婚』のフィガロへとつながっていく人物像です ね。で、双方の召使がいろいろ画策したり、とりなして主人たちの恋愛がうまくいく のです。同時に、召使い同士もめでたく結ばれることが多いですね。召使いは芸達者 な役者が演じることが多く、なかでも、アルルカンという道化、これはコメディア・ デラルテのアルレッキーノからきていますから、身体的な演技で大いに笑わせます。 座長級の役者がやるんですが、大活躍して笑わせてくれます。だいたいマリヴォーの作品には愛と金銭がいつも絡んでいて、そこに人間の滑稽さがうまれ、観客を笑わせてくれます。

—ありがとうございました。

2005年3月
佐藤 康

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