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2005年3月 演劇フラヌリー 第12回 能の宇宙とクローデルの宇宙 —クローデルの詩による創作能−
投稿日 2005年3月6日
最後に更新されたのは 2023年5月23日

演劇フラヌリー 第12回
能の宇宙とクローデルの宇宙
—クローデルの詩による創作能−

ポール・クローデルは20世紀フランスを代表する「劇詩人」の1人です。代表作には『真昼に分かつ』や『繻子の靴』があります。作品はたいへん文学的な密度が高いので、おいそれと気楽に楽しめる類のものではありません。代表作となると、長大かつ難解なものが多いので、フランスでもそう頻繁に上演されるわけではありません。素朴に「劇作家」と呼ぶのが憚られるゆえんです。やはり「劇詩人」と呼ぶにふさわしいのです。しかし、いくら難解だからといっても、この極東の島に生きる私たちがクローデルを無視できないのは、クローデルが大正年間にほかならぬ、駐日大使だったこともあり、日本と極めて縁の深い人物だからです。しかもクローデルが外交官としての道を選んだのは、そもそも中国および日本への文化的関心があったからだということです。ですからクローデルは日本文化、とりわけ能をはじめとした古典芸術への造詣が深く、作品の中でも日本がしばしば登場します。

ちなみにロダンの弟子だった彫刻家のカミーユ・クローデルはポールの姉。その壮絶な生涯は映画化されて話題となりました(『カミーユ・クローデル』)。映画の中にも外交官志望のポールが登場しています。

今年はそのクローデルの没後50年を迎えます。日本でもいくつかの関連公演や出版などが行われます。クローデル研究の第一人者、渡辺守章氏の翻訳による『繻子の靴』が岩波文庫から近日刊行の予定ですし、また秋には同氏の演出による同作品の上演も予定されています。今年はクローデルについて考える機会が多くなると思います。

さて、今回上演された「クローデルの詩による創作能」は、その渡辺氏自身がクローデルの詩をもとにテキストを編み、演出した「薔薇の名−長谷寺の牡丹」「内濠十二景あるいは<二重の影>」の2演目です。世田谷パブリックシアターでの上演ののち、一部役者を変更して宝生能楽堂で上演されたもので、筆者はこの「内濠十二景」のほうを見ました。「内濠十二景」はクローデルの詩ですが、そこからの引用と、それから『繻子の靴』の中から「二重の影」というエピソードをめぐるくだりを組み合わせて台本がつくられています。
「二重の影」というエピソードは『繻子の靴』の主人公、ドン・ロドリッグという騎士と人妻のドニャ・プルエーズとの恋にまつわるものです。新大陸に暮らすロドリッグと、モロッコに暮らすプルエーズの、会いたくてもかなわぬ情念が「夢の中で合体して、アフリカの要塞の白い壁に二重の影として出現する」(渡辺)というものです。壮大な規模の作品で、舞台も世界的な広がりを持っています。台本のことばで説明すればこういう具合になります。「地上に叶はぬ恋の執着、白き壁に焼きつきて、男女一体の異形の影とはなれり、世にある影という影は、主の形に添い黒く姿を印すもの、しかるにこの二重の影は主とてなく・・・」。

 こういうモチーフを好きか嫌いかはさまざまでしょうが、実際に(能ではなく)ふつうの舞台でやるとなると、たしかにリアリティーが出し切れないところだろうと思います。渡辺氏も「初演以来、上演されないか、されても納得のいくものではなかった。」と書いています。ところがこれがうまいこと能のなかに収まるのですから不思議なのです。

この創作能の全体はいわゆる複式夢幻能の構成になっています。前段で分厚い書物を抱えた若者が登場すると、その前にクローデルの霊が現れて、「二重の影」の紹介をします。若者と霊とが詩作についての問答を行い、その後、霊は消えていきます。そして若者の舞いが始まります。するとそこへ「二重の影」が現れて若者に憑依します。これによって若者はロドリッグに、影はプルエーズに変身します。添い遂げられない嘆きがうたわれるなか、聖ヤコブが後シテとして登場して二人を天上で和解させるのです。

これは能が変身=変容の劇であることを改めて認識させる構成だと言えるでしょう。若者を例にとれば、複式夢幻能には「現世」の身体が「霊の憑依」した身体を経て、「救済された」身体を獲得するに至る3つの段階のドラマがあるのです。そしてそれにともなって登場人物もそれぞれに変容のプロセスを進んでいくのです。いわば、祭儀の過程の中で現世と霊界とが「一つになる(一如する)」、それが能という演劇をつらぬく世界観なのです。西洋の近代劇には変装こそあれ、劇の進行に伴って人物の同一性がシステマティックに更新されていくという原理はありません。プログラムに西垣通氏がお書きになっていることと重複しますが、この意味ではまさしく能こそは象徴派の詩人たちが夢見た象徴劇を体現するものにほかなりません。フランスの象徴派演劇は、象徴派の演劇運動が興った19世紀末には、作品のレベルでは象徴派演劇を真の意味では持てませんでした。それから遅れてクローデルが書いた作品も本格的な上演は第2次大戦後になってからのことです。そういう時間的なずれがクローデルを語るには面倒な事情なのですが、そこにさらに、西洋の文明の頂点で反=文明のスタンスをとった象徴派演劇が、極東の伝統演劇のなかに花を咲かせるという事態もまた、いやがうえにも事態を複雑にするものかもしれません。

これは能にかぎらず言えることですが、近代西洋のパラダイムに骨の髄まで浸ってしまっている私たちは、西洋的な異物が日本古典の中に投げ入れられたときに、はっと驚くほど日本古典がどういう芸術であったかを理解することがあります。翁の能面をつけた聖ヤコブの出現は単なる奇抜な趣向として片づけることのできない体験をもたらしてくれました。

しかし、能という演劇の完成度に感嘆しつつも、その演劇形式がおそらくはあまりにも完成されてしまっているがゆえに、その身体技法のみならず、ドラマトゥルギーや能舞台という固有の空間も含めて、能の一面だけを抽出して現代演劇に適用させるようとする試みはきわめてもろいものになりがちです。今回の試みは、それとは逆に、能の形式と身体とドラマの中にクローデルを持ち込んだ点で成功したものだと言えるでしょう。能を現代演劇として応用するためには、現代演劇を能に寄生させていくほかに方法はないのではないかとも思いました。だとすれば、たとえば『繻子の靴』全編を能の形式を借りて行うなどというようなことは、絶対に考えられないわけで、その意味では能という演劇の守備範囲はけっして広いものではないとも言えるのです。

今回の公演の要になっているのはシテ役の観世栄夫さんです。実は能の演劇としての形式がいかに優れた象徴劇であろうとも、能の厳しいところは、その象徴性を担って表出できる身体技法の持ち主が、能役者の中でもおそらくは数えるほどしかいないというところなのです。今回の公演もはたして観世栄夫の身体がなければこれほどの水準を獲得しえていたかどうか?

 最期に翻訳のこと。フランス語としても難解なクローデルの劇韻文を、謡曲という韻文に翻訳するということ。これは虚構から虚構への翻訳という作業です。至難の業です。そこには翻訳を行う主体が依拠する、生理的なものをふくんだ生活言語が介在していないのです。ひょっとしたら、これが原理的に本当の翻訳なのかもしれませんが、これはまた、稿をあらためて考えることにしましょう。

2005年3月
佐藤 康(ドラマトゥルグ)

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