フラン•パルレ Franc-Parler
La francophonie au Japon

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リシャール・ガリアーノ、アコーデオン奏者
投稿日 2001年12月1日
最後に更新されたのは 2017年6月1日
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リシャール・ガリアーノ:ニューミュゼット、アコーデオンの新風
 
アコーデオンに新たな息吹を与え、そのルーツのすべてを活用すること。この二つの課題をクリアしたリシャール・ガリアーノが8月末、「ブルーノート東京」でコンサートを行うために来日した。
 
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© Franc-Parler
フラン・パルレ:どうしてアコーデオンを選んだのですか。
リシャール・ガリアーノ:父がアコーデオン奏者だったので、それを見ていたせいです。子供なら誰でも父親のようになりたいと思うものですが、僕と父の場合は、音楽や楽器と僕との始めてのコンタクトがアコーデオンを弾いている父の姿だったのです。最初のころは、父の真似をするために紙で小さなアコーデオンを作り、同じように動かしていました。その後父が手ほどきをしてくれました。思春期になると、どの人もそうですが、親と違ったことがしたくなります。僕はクラシックやジャズに向かうようになりました。今は、父が74歳で私が50歳なので、また同じことをやるようになりました。とくにワルツ・ミュゼットなど、フランスのアコーデオンミュージックのルーツは全部弾いています。
 
フラン・パルレ:普通のアコーデオンを使っているのですか。
リシャール・ガリアーノ:普通と言えばそうですが、フランス式のものではありません。ピアノ式鍵盤型のミュータントです。フランスではまったく使われていないものです。僕がこれを手に入れたのは、偶然僕の二人目の先生がこれをニース地方に輸出していたからです。ニースはイタリアに近いですからね。彼はこれをフランスに普及させようと思っていたのです。でも実際に買ったのは僕の他にはごく数人でした。それは音がフランス式のアコーデオンとは違っていたからです。フランス式のものはこれよりアグレッシブで金属的な音がします。僕の楽器は12歳のときに父が買ってくれたものをいまだに使っています。鍵盤は取り替えたばかりですがね。息が切れてましたから。文字通りにね。
 
フラン・パルレ:どうしてニュー・ミュゼットを作ったのですか。
リシャール・ガリアーノ:それはアストル・ピアソラが直接アドバイスしてくれたからです。ニュータンゴを作った人です。当時は結構付き合いがあったのですが、私はまだデビューしていませんでした。まだ伴奏ばかりしていたのです。バルバラやクロード・ヌガロ他フランスの歌手の伴奏をしていました。僕個人として何かやりたい気持ちは強かったのですが、きっかけがつかめなかったのです。ある日アストルを空港に迎えに行ったとき、車の中で彼が突然言ったのです。あなたは絶対にニュー・ミュゼットをやるべきだ、とね。僕は彼が死ぬとすぐそれを忠実に実行しました。そして彼の言うことは正しかったと思いました。彼は具体的な指示さえ残してくれていました。例えばジプシー風ミュゼットの基本的なフォーメーションなど。それはギターとベースとドラムとアコーデオンです。
 
フラン・パルレ:ニュー・ミュゼットの特徴はどんなところにありますか。
リシャール・ガリアーノ:ニュー・ミュゼットはミュゼットの伝統から出発しています。まず40年代にはすばらしいアコーデオン奏者がいました。トニー・ミュレナ、ギュス・ヴィズール、ジョー・プリバなどです。それからこのミュゼットは、すでにフュージョンだったと言えます。パリにやってきたイタリア移民がオーヴェルニュ出身の奏者と競争関係にありましたが、後者は楽器のミュゼットを演奏していたのです。バグパイプに似た楽器です。またジプシー音楽の影響もありました。最も代表的なのはジャンゴ・レナーツです。彼は素晴らしいワルツ・ミュゼットを書きました。その後にいわばブラックホールのような時代がありました。60年代には、よりポピュラーな奏者がいましたが、音楽的にはたいしたことはなく、商業主義的で、ハーモニーに欠けていました。フランスには世代間のこうした対立があるので自分のルーツとしてはちょっと恥ずかしい気持ちもありますが、僕はこの伝統を受け継ぎながらフュージョンのルーツを保ち、各方面の影響を受け入れてきました。ジャズは大好きなのでもちろんですが、そのほかにもフランスのシャンソンやクラシック音楽を取り入れています。特にメロディーを大切にしています。
 
フラン・パルレ:あなたの本拠地はニースですか。
リシャール・ガリアーノ:いいえ。20歳のときニースを離れ、ミュージシャンとして働くためにパリに行きました。つまり、ありとあらゆる歌手の伴奏です。レッジアニ、バルバラ、ヌガロ、ジュリエット・グレコ。録音もたくさんしました。アストル・ピアソラと出会うまでずっとそうでした。彼と出会ってアドバイスをもらってからですね。少し自由になったのは。それからドレフュスにめぐり合い、レコードを出すようになりました。コンサートもあちこちでやりました。今でもパリに住んでいますよ。モーブージュ通りです。でも今は前より融通が利きます。ニースからでもローマからでも出かけられますからね。というのは、もっぱらヨーロッパで演奏しているからなんですが。パリでは25年間過ごしましたが、今ではそうしようと思えば故郷に戻って、親戚の近くで過ごすこともできるようになりました。親戚はニースにいるのでね。
 
フラン・パルレ:年間の音楽活動はどのように組まれていますか。
リシャール・ガリアーノ:コンサートが約120回、ヨーロッパが主で、東京は例外の部類です。同じような年はぜんぜんありません。よく旅行してよくコンサートをします。それから契約があるので年に一回ドレフュスでCDを出します。
 
フラン・パルレ:では日本ですが…
リシャール・ガリアーノ:おやおや、これは長い話です。最初来たのは1975年で、フランク・プールセル・オーケストラと一緒でした。僕はオーケストラでトロンボーンを演奏していました。アコーデオンでも数曲弾きました。次はピエール・バルーと一緒に来ました。彼のコンサート・ツァーに伴奏をつけたんです。僕たちはここで2,3回コンサートをしました。それからビレリ・ラグレンヌと一緒に始めてブルーノートに来ました。昔のブルーノートです。それからJazzin’Parisに参加するために来ました。僕は1999年にデュオで来ました。ミッシェル・ポルタルとだったと思います。それからクリスマスにブルーノートに来てイタリアのミュージシャン二人と一緒にトリオで演奏しました。だからこれで6回になりますね。習慣になりそうです。
 
フラン・パルレ:あなたのアルバムにはよくダニエル・ユメールやミッシェル・ポルタルが出てきますね。これは会員制クラブのようなものなのでしょうか。それとも解放性の現われですか。
リシャール・ガリアーノ:僕としては開放性のほうを心がけています。アコーデオンの世界はちょっと近親交配的な精神に毒されていますからね。アコーデオン業界の人間としか付き合わないし、アコーデオンの曲しか演奏しません。僕は始めからいろいろなミュージシャンと競演したいと思っていました。ミッシェル・ポルタルもそうだし、次のCDはエディ・ルイスだし、アメリカのミュージシャンなどですね。なぜならアコーデオンのイメージを回復するためにとても役立つような仕事を彼らがしていると思うからです。ポルタルやエディ・ルイスと競演すると、人々のアコーデオンに対する見方が変わってきます。アコーデオンは一段下等な楽器だとみなすような音楽的差別はありません。お祭り騒ぎの添え物だとか、屋台のポテトだとかですね。でも私はこういうものにけちをつけようというのではありません。アコーデオンの伝統と歴史はつねに守ってきたつもりです。だから、ダニエル・ユメールと競演しながらでもワルツ・ミュゼットは弾けるし、タンゴでも、ジャズのテーマでも弾けるわけです。でも僕のルーツを否定したことは一度もありません。僕の楽器の源を否定すれば、僕自身、骨抜きの根無し草のようになってしまうでしょう。
 
フラン・パルレ:エディ・ルイスとの新しいアルバム『Face to Face』の選曲はどうしたのですか。
リシャール・ガリアーノ:エディとまさに顔つき合わせてやりました。彼は他のミュージシャンの視線や微笑が必要なミュージシャンなんです。ミッシェル・ポルタルなどとのデュオでは聴衆に向かって演奏します。でもエディ・ルイスとのときは、向かい合って演奏します。コンサートの間中ずっと向き合っているんです。これはとても大切なことです。それから選曲は公平になるようにやりました。つまりエディ・ルイスの作品の提案の仕方なんですが、彼はとても控えめな人なんです。ひとつの曲を出す前に、彼はよく考えます。距離を置いて、足場を確かめることが必要なんです。僕のほうはアマンディーヌやアジュル・タンゴと同じ時代に作った曲があったりしました。そのころはエディ・ルイスと競演するなんて、思いもよりませんでした。『パリの空の下』を入れてもらうのは容易ではありませんでした。プロデューサーはこの曲の観光絵葉書的なところや、フランスにありがちな欠点を恐れていました。フランス文化を敬遠するようなところがわれわれにはありますからね。『パリの空の下』は僕にとってフランスで作られた中で一番きれいなシャンソンメロディーです。その演奏の仕方ですが、まず伝統的なやり方で弾き、それからジャズのスタイルで弾き、最後にはモンマルトルのスタイルで決めます。エディ・ルイスのハモンド・オルガンはまるでオルグ・ド・バルバリ(手回しオルガン)のようになります。これは多分アルバムの中で一番詩的な曲でしょう。だから僕は粘りました。結局フランシス・ドレフュスは、この曲がきれいなのはとにかく事実だと、CDにこれを入れるべきなんだということに気が付いてくれたのです。
 
2001年12月
インタヴュー:エリック・プリュウ
翻訳:大沢信子



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