映画監督ブノワ・ジャコと『肉体の学校』
日本の三島由紀夫の小説『肉体の学校』を映画化したからと言って、必ずしもその時代や場所をそのまま温存したのではない。それは、女優イザベル・ユペールにこの主役を提供したいという、ブノワ・ジャコの決意から生まれたのである。結果、彼女は、1999年度のセザール賞最優秀女優賞にノミネートされることになるのである。
フラン・パルレ:映画界での貴方のご経歴についてお話し頂けますか?
ブノワ・ジャコ:私は、1975年以来、約10本の長編映画を撮っています。初めての映画はかなり早い時期に作っています。それは、処女作と取り組む一般的な年齢よりは早かったという意味です。27歳か28歳の時でした。私はこの間ずっと映画を撮って来たわけですから、これら約10本の映画を、かなり変則的に制作したということになりますね。数年間、映画の為の撮影はしなかったということがあったり、それから、突如、一年のうちに2本の映画をつくったりしているわけです。
フラン・パルレ:それは何に起因しているのですか?貴方のご気分?それとも予算的なもの?
ブノワ・ジャコ:気分によるなんてことはありません。何かを書こうとか、何かの中で制作しようなんてことで、決まるものではないのです。原稿用紙や画布を買って、文章や絵を書いたりするのとは違います。その都度、撮影現場を、それもかなり大がかりなものを想定し、建設し、決定しなければなりません。その上、映画一つ作るにしても、必要となるもの、、、、がありますから。たとえ、経済的に作ろうと思っても。ともかく、節約して制作しようが、豪華なやり方で作ろうが、いつも膨大な費用がかかります。重装備の機材が必要ですし、自分と一緒に働いてくれる、相対的に沢山の人達を巻き込むことになります。ともかく、映画は一人では作れません。ですから、チャンスに左右されるのです。私の場合、たいていは、映画を撮ろうとしている時の経済状況が、その時撮りたいと思うものにかなっているかどうかで決めます。だから、時には、続けて2・3本撮ることも出来れば、不可能な時もあります。時期が実っていないからです。
フラン・パルレ:貴方の経歴をみますと、マルグリット・デュラスのもとで、助監督をしていらっしゃいました。その当時の事を少々語っていただけますか?
ブノワ・ジャコ:ええと、私は、時によくあるように、映画学校に通ったり、あるいは一方でよくあるように、映画評論から始めた訳ではないのです。私は、かなり若い時に、助監督として出発しました。あらゆるスタイルの映画制作を代表するバラエティーに富んだ人たちの助監督として働きました。私が助監督として最後に仕事をした人が、そう、マルグリット・デュラスだったのです。彼女とは、3,4本の映画制作を手助けしたと思います。
フラン・パルレ:貴方は三島の作品からこの映画をお作りになりました。この本を選ばれた理由は何でしたか?
ブノワ・ジャコ:私にとって、それは偶然の出来事でした。実は、以前、三島の本、小説を幾つか読んだことはありましたが、この小説は読んだことがなかったからです。その上、私は三島の小説から映画を作ろうなどと思いもよらなかったでしょう。それに実際のところ、私は、イザベル・ユペールと一本映画を作りたいと模索していたのですから。そして、彼女に合った人物を探していたところ、この映画を私と一緒に撮りたいと思っていた女性プロデューサーが、私に読むようにとこの小説をくれたのです。その当時、私がイザベル・ユペールと撮りたいと思っていたものへの、何か面白い人物の手がかりがきっとあるかもしれないわよと仄めかしながら。
フラン・パルレ:貴方は、この本に忠実でしたか?
ブノワ・ジャコ:結論的には、かなり忠実だったと思いますね。もちろん、相当に、この本の時代や空間からは遠ざかっています。物語は、1950年代の日本で起こったことですが、映画では、フランス、しかも現代に於いて話が展開します。ですから、劇的な変更が行われています。でも、この転換を行っても、私は、この本の中で、深く投げかけられている問題にかなり忠実であると思っています。
フラン・パルレ:この本の中で、映画化にあたって、なにか困難な点がありましたか?
ブノワ・ジャコ:不可能な事が色々ありましたね。この本は、ともかく、ちらっと見ただけで、通読しただけで、とても強烈な印象を与え、戦争が終わった、1950年代の日本に於ける女性の社会的・精神的状況に関する驚くべき記録といえます。それで私は、明らかに、フランスの社会、しかも今の時代の映画を作ろうと思っていたので、当然のこととして、その点は切り離しました。
フラン・パルレ:彼らが日本のビールを飲むちょっとした場面がありましたね。また、日本レストランも出てきました。
ブノワ・ジャコ:日本レストラン? ああ、それは、パリのですよ。パリや、恐らく世界の他の町々、首都のようなところにある、あれですよ。パリには、沢山あります。フランスには、日本ソサエティー、リトル・トーキョーとでもいうようなものがあります。それで、私にとって、楽しく、面白かったのは、日本の本からヒントを得たこの映画が、前にも言及したように、この本の空間や時代から遠ざかっているにもかかわらず、日本が、時々折に触れて顔を出すということでした。映画の女主人公は、日本の洋品店で働いており、日本から来た商品やカリグラフィー(書)が目につくある界隈に住んでいます。この映画には、一種の日本との橋渡しがあります。
フラン・パルレ:この映画を制作するに当たって、日本の映画をいくつかご覧になりましたか?
ブノワ・ジャコ:私は、以前から、日本の映画、古典的な日本の映画に、とても感銘を受けていました。特に、溝口のものです。恐らく、溝口健二こそが、私を映画の道に導いた映画人だったかもしれません。
フラン・パルレ:ちょっと、話の場所を変えます。貴方は、モロッコでも撮影なさいました。モロッコを選ばれたのは、理由なき選択だったのですか?私は、ジッドを連想しました。モロッコでの、イスラム教国での、女と男の関係。
ブノワ・ジャコ:貴方のご指摘通り、偶然の選択ではもちろんありません。でも、私がこだわったのは、とりわけ、映画の中の男の人物、あの若者が、外国人であることを望みました。外国からやって来るということ、それも、フランス人にはとても馴染みのある外国からやって来るという設定です。ということで、一般的には、嘗てのフランスの植民地からということになります。ですから、アルジェリアでもチュニジアでもモロッコでもよかったのです。そして、彼は、イザベル・ユペール演じる人物と一緒に、母国に戻るという筋の運びです。そんなわけで、ご覧の通り、モロッコを選びました。その上、観光立地国であることも条件でした。
フラン・パルレ:この映画で、貴方は、男と女の戦いについて語っておられます。それには、勝者、敗者があるのですか?
ブノワ・ジャコ:ああ、ありませんね、私が思うに、それは男達と女達の間の争いですから、そこには、決して、勝者、敗者の区別はないのです。その戦いは永遠に続くものであり、たとえ、時には争いを放棄することがあっても、決して終わることはないのです。あるいは、彼らの人生に於いて、休戦になったとしても、その時、一方が他方に勝ったという感情を持ったところで、実際は、決して自分が思っている通りではないのです。
フラン・パルレ:貴方はハッピーエンドに終わる物語を作るお積りはありますか?この話は、実際、幸せな終わり方をしていませんから。貴方は、ハッピーに終わる恋愛物語を作るお気持ちはありますか?
ブノワ・ジャコ:とても惹きつけられる話ですが、でも、人を説得するには、先ず、私自身がそれに納得していなければということであれば、私には出来そうにありませんね。でも、やってみたいですよ、ほんとうに。それが、本当に存在するのであれば。
フラン・パルレ:最後の質問です。貴方は現在、他の企画をもっていらっしゃいますか?
ブノワ・ジャコ:ええ、沢山あります。来たる2年間に、4本の映画を撮るつもりです。
フラン・パルレ:沢山のお仕事を抱えていらっしゃるのですね。
ブノワ・ジャコ:正にそうなのです。数か月後に仕上げる作品が一つ、準備を開始しているのが一つ、これは、再びイザベル・ユペールと組み、ヴィルジニー・ルドワイアン、ファブリス・ルキーニとヴァンサン・ランドンが出演します。次いで、余り間をおかずに、アメリカでの映画を、カトリーヌ・ドヌーヴやアメリカ人の俳優たちと、英語で制作します。その後で、ダニエル・オートウイユと、一つ映画を作る予定です。
フランス映画祭横浜1998
インタビュー:エリック・プリュウ
翻訳:井上八汐