ロニー・ブローマン:人道援助のジレンママスコミの伝える紛争や飢饉地帯の映像は、我々に国際援助を呼びかけている。その中のあるものは、世論操作のためのキャンペーンでしかない。そこで人道援助団体にとっての問題が生じる。何が何でもこの人たちを助けなければならないものなのだろうか。人助けをするつもりで迫害の共犯者になってしまうかもしれないとしても・・・ロニー・ブローマンは12年間にわたって非政府医療援助団体「国境なき医師団」(MSF)の団長を務め、現在もMSFのために非常勤でスタッフの養成やリサーチを行っている。そのほかにもドキュメンタリーの制作や執筆活動を行うかたわら、パリ12大学や政経学院で国際人道援助を教えている。フラン・パルレ:個人的な経歴をお願いします。お誕生から。ロニー・ブローマン:1950年、エルサレムに生まれました。4歳のときフランスに渡ったので、エルサレムのことも、イスラエルのことも覚えていません。僕の記憶はフランスから始まっています。フラン・パルレ:ユダヤ人としてのアイデンティティーはとても強いですか。ロニー・ブローマン:強くも弱くもありません。僕にとっては1つの事実です。僕は1つの系譜の中に位置しているんです。つまりヨーロッパのユダヤ人の歴史の中に位置しているわけですね。これは僕と言う人間の1つの側面ではあります。でも僕はユダヤ教徒じゃありません。全くの無宗教です。おそらく子供時代の教育や家族の歴史のせいではないですか。僕がヨーロッパに起った数々の大変な悲劇のいくつかに特に興味を持ったのは。多分それが一因だと思います。この個人的な経歴、家族の経歴ですね。ええ、もちろんそれは大きいです。僕の先祖はポーランドにいたんですが、ポーランドのユダヤ人はほとんど皆殺しにされましたからね。それがいつも頭のどこかにあることは確かです。フラン・パルレ:どうしてお医者さんの仕事を選んだんですか。ロニー・ブローマン:なぜって、始めからそう思っていたんです。小さいときから医者になりたかったんです。素晴らしい仕事だと思っていましたし、今でもそう思っています。もう診療はしていませんがね。フラン・パルレ:熱帯医療を勉強なさったんですね。すでに思うところがあったのですか。ロニー・ブローマン:ええ。学生時代、僕は左翼の政治活動をしていました。そのため大学の勉強は一時中断していました。その後政治活動は止めました。というのは、左翼が理性を失って危険な感じになってきたからです。僕は医学の勉強を再開しましたが、金儲けではなく社会福祉の方面で仕事をしようと思っていました。大きな政治危機にもとても関心がありましたから、「国境なき医師団」はその2つをつなぐ役割をしてくれたんです。福祉活動と政治危機ですね。その二つの接点に人道医療援助があったんです。そんなわけで人道援助の分野で仕事をすることを頭に置きながら医学を学び直すことになりました。だから熱帯医療と救急医療だったんですね。そうしたシチュエーションに技術的に対応できるようにということです。フラン・パルレ:つまり、人道援助と医療では、人道援助のほうが大切だった?ロニー・ブローマン:医療は人道援助のための手段です。これは僕がダイレクトに人道援助活動をするための道具なんです。まさにもってこいの仕事ですね。フラン・パルレ:人道援助活動を始めたときの直接の動機をもう少し詳しくお願いします。ラジオのインタビューでそれは好奇心からだと言っていましたね。ロニー・ブローマン:好奇心が最大の動機です。これは第三世界に対する好奇心です。ぼくが属していた左翼グループは第三世界のことを大いに語っていましたから。だから僕も第三世界のことをずいぶん話してはいましたが、実際には全然知りませんでした。単に記事や書物を通して知っていただけです。だから自分の目で第三世界を発見したいと思ったんです。だから「好奇心から」と言っているわけですね。僕は第三世界に本当に関心があるんです。エキゾチックなものに出会いたいと言う意味の好奇心ではなく、政治的な好奇心ですね。僕はすでに左翼ではありませんでしたが、政治への強い関心は残っていました。そして第三世界の政治の実態と第三世界の生活とが僕の興味をひきつけていたんです。いわば知的関心でしょう。好奇心というよりはね。それから僕は現実を発見することになりますが、それは大変に興味深いものでした。それでもっと続けたくなったのです。それから同情の気持ちもありました。ここには援助のニーズがある、この分野でなら僕もお役に立てそうだ、と思ったのです。フラン・パルレ:「国境なき医師団」はビアフラ戦争のあとで創設されたんでしたっけ。プロパガンダのための戦争だったそうですね。ロニー・ブローマン:「国境なき医師団」の誕生は矛盾に満ちていました。このビアフラの大量虐殺は偽りだったのですが、同時に人道援助活動は飛躍的な発展を見ました。医師たちは政治情勢を診断するうえでは誤りを犯しましたが、従来の人道援助活動につきものだった沈黙と中立性を打ち破ったのは正解でした。その後カンボジアの偽りの飢饉の際には一部の人道援助団体とカンボジア政府が対立することになります。この件は、まあ何につけてもそうですが、目に見えるものがいかに当てにならないかを悟るよい機会になりました。ビアフラ紛争は実は通常型の分離独立戦争でした。しかし分離派の指導者たちは、世論と外交の支援を得るためにスイスの広告会社を利用し(この会社はもう存在しませんが)、大量虐殺を創作したのです。この大量死のお蔭で、自分たちが絶滅の危機にあるように見せかけることができた、そして国際社会の支援を求めることができたわけです。特にフランスは彼らを支援しました。そのためこの戦争は2年間近くも長引いてしまいました。軍事的にはもう負けていたのにね。この大量虐殺キャンペーンのお蔭で彼らは援助を得ることができました。特にド・ゴール将軍の援助ですね。つまりド・ゴールは心ならずもこの戦争を長引かせてしまったことになります。このプロパガンダを可能にしたのはビアフラから送られてきた映像の力であり、ビアフラに駐在した人々が伝えた報告でした。ジャーナリストや人道援助団体は、何の悪気もないのに無意識にこの破廉恥な殺人プロパガンダの共犯になってしまったのです。それというのも当地に石油資源が発見されたため、いや他の思惑もありました。国の行政区画が変更になり、州の一部がビアフラの人々の管理を離れてしまった。これが分離独立に踏み切らせたもう1つの理由です。しかし、本質的なのは、我々が見せかけの演出に付き合わされたこと、巧妙にでっち上げられた嘘に乗せられたことです。このことで我々は、ひとつの状況を描写するにあたって言葉に気をつけることを学びました。なぜなら大量虐殺、ジェノサイドと言う言葉は非常に重大であって、細心の注意を払って用いなければならないものだからです。他の例としては、カンボジアですね。カンボジア政府が外交的認知を必要としていたので、それを得るために飢餓を口実に使ったのです。フラン・パルレ:ベトナムが支援していた政府ですね。ロニー・ブローマン:ベトナムが成立させた政府です。政治的理由からこの政府に好意的だったNGOは、この飢餓の話を受け入れ、追認しました。他方、政府に敵対的だった団体もまたこの説に追随しました。なぜなら政府の失策を証明することができるからです。彼らが自力で状況を改善することができなかったということですから。だから皆この飢饉を利用したのです。思うところは全く逆であったとしても、結果的には一致して間違った説を正当化することになったのです。僕はこれが虚偽だったとは言いません。誰も嘘をつこうとか事実を粉飾しようとか思っていたわけではないのです。ひとりでにそうなってしまったのです。フラン・パルレ:タイ国境に着いた3万人の人々を見て、皆がみな餓えているのだと思ってしまったのですね。ロニー・ブローマン:そのとおりです。でもそれは氷山の一角ではありませんでした。国民のごく一部だけに当てはまる特殊な状況だったのです。これは赤色クメール(ポルポト派)が奴隷労働をさせるために連行した人々でした。長い行軍と戦闘とジャングルでのサバイバルで消耗しきっていました。残りの国民は、厳しいながらもなんとか適応可能な状況のなかで生き延びていました。カンボジアの自然のお蔭ですね。逆にエチオピアでは、本物の飢餓が利用されました。1984年から1985年にかけての飢饉と大規模な援助活動とが住民の強制移動の引き金として利用されたのです。というのは、エチオピア政府はイデオロギー上の理由で北部の住民をそっくり南部に移住させて政府の管理化に置こうとしていたからです。共産主義の新しい社会を建設し、国の近代化を促進しようと考えたのです。この移住によって多くの死者が出ました。おそらく10万から15万人でしょう。NGOは人々を難民キャンプにおびき寄せるために利用されました。MSFはそれに気付いたとき、政府に対して人々の強制移住を中止するようにと申し入れました。また北部の土地の再開発の方式を検討し、人々が望むなら自分たちの土地で暮らし続けられるようにして欲しいと頼んだのです。すると私たちは国外退去させられてしまいました。他のNGOは残念ながら私たちの立場には与しようとしませんでした。エチオピア政府に対して非常に批判的であったとしても、やはり中立を保たねばならない、いかなる立場も表明してはならない、と考えていたからです。フラン・パルレ:『人道援助、そのジレンマ』の中心的なメッセージは何ですか。ロニー・ブローマン:人道援助活動は他のあらゆる形の活動と同じように考えて行わねばならないということです。持てる者が持たざる者に何かを分かち与えるのは自動的にできることではない、その行為について考えながらでなければ、ということです。2001年2月インタヴューと翻訳:大沢信子
ロニー・ブローマン、非政府医療援助団体「国境なき医師団(MSF)」元団長
投稿日 2001年2月1日
最後に更新されたのは 2017年6月19日