フラン•パルレ Franc-Parler
La francophonie au Japon

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ジャン=ポール・アレーグル、劇作家
投稿日 2006年6月1日
最後に更新されたのは 2023年5月25日
ジャン=ポール・アレーグル:みんな劇場へ行こう!
 
若者も大人も劇場へ行きたくなるようにし向けること、上演レパートリーの古さを一掃し、新しくすること。これは厳しい戦いだが、フランスで最も上演されている現代に生きる劇作家ジャン=ポール・アレーグルは勝利をほぼ手中に収めつつある。
 
©Franc-Parler

フラン・パルレ:現代劇を劇団の上演レパートリーに加えるのは簡単ですか?
ジャン=ポール・アレーグル:いつまでも語るに値するとても良い質問です。実際、フランスでは、それは難しいことです。何故なら劇場の支配人達は利益に注目しているからです。もしもモリエールを上演したなら、ホールは満杯になり、著作料は払いません。もしもシェークスピアを上演したなら、ホールは満杯になり、著作料は払いません。もしも現代作家の作品を上演したなら、ホールを満杯にするのは難しいでしょう。何故なら人々の認知度は低いからです。それに著作料を払うことになります。従って支配人達の全ての関心は古典のみを上演することにあるでしょう。幸いなことに、私達が創設したEAT(劇作家連盟)があります。ここが演劇の現代的な見方を避けて通ることは出来ないということを示しています。何故なら私達は、脚本を書く時、現代の世界のことを語っているのですから。確かにフランスでは、そのことを分かってもらうことが、時には難しいこともあります。その時代の美点や欠点を見せることも、とても重要な使命なのです。
 

フラン・パルレ:あなたの戯曲のいくつかは、もし私が間違ってなければ、役者の数が不確定のまま上演することが出来るのだそうですが、それはどのように出来るのでしょうか?
ジャン=ポール・アレーグル:そうですね、そこがとても重要なのです。それは私が、私がそれを現代のテイストでよみがえらせてもいるのですが、それは私が変化する配役と呼んでいるものです。それは私が二十数年前に脚本を書き始めた時からやり始めたことです。私はある劇団の人間に会った時、私は登場人物の数に従って脚本を選んでいるの、と言われました。その女性は、それに時々、もしもその脚本がそれほど気に入らなくても、俳優3人、女優7人だったらそれを採用するの、とも言っていました。私は彼女に、それにしても登場人物の数で脚本を選ぶなんて残念なことだよ、と言いました。それはまるで住む家を、壁紙の色だけで選ぶようなものです。壁紙は取り替えられますが。そんなわけで、私はとても柔軟な、変化する配役の戯曲を作ろうと決心したのです。それは例えば、康君(ドラマトゥルグ 佐藤康氏)が翻訳している作品ですが、3人でも30人でも演じる事が出来ます。役を減らしたり、戻したりすることが出来ます。新宿の劇場ミラクルにおいて(2006年3月下旬に)岡田正子演出で上演された『行き交い』は2人から40人で演じることが出来ます。これが重要なのです、何故ならそれによって全ての演出家に戯曲内で各人の道程を選択することが許されるからです。
 
フラン・パルレ:アマチュア演劇とプロの演劇との間に境界はありますか?
ジャン=ポール・アレーグル:二番目の素晴らしい質問ですね。それは、私の情熱を傾けていることの一つです。フランスでは、ある問題、しかもとても下らない理由で境界が出来ているのです。つまりアマチュア演劇はフランスでは青少年スポーツ省という省庁の管轄で、プロの演劇は文化省の管轄なのです。まあ、私はそれに対して戦っているのです。サッカーに例えれば、もしアマチュアがある省庁でプロが別の省庁だったらつなぎのパスを出す道が一つも作れないということじゃないか、と言いながら。おそらく現在の文化相がこれを聞いて演劇全体の再構築を試みているのではないかと私は思います。ところで、今、フランスでは、現時点では、アマチュア達がとてもとても革新的なのです。現代劇作家を探すのも彼らだし、リスクを伴う創作をしようとするのも彼らです。彼らはプロのように経済的リスクがありませんから。フランスにおけるプロもまたとても良いです。質の良いプロの劇団もあります。でもアマチュアとプロの間にはまだ亀裂がありすぎます。私はというと劇作家の一人としてミシェル・アザマや他の色々な人達と共に、演劇全般というものがあり、全ての演劇は合流しなければいけない、と伝えようとしているのです。その際、私がとてもよく口にすることがあります。それは観客側のソファに座る時、アマチュア観客もプロもいない。一人の観客がいて、彼が好むか、好まないかだと。従ってプロの演劇もアマチュアの演劇もない、その前に演劇全般というものがあるのです。そしてそれが良く出来ているなら、アマチュアだろうがプロだろうが、それは素晴らしいことです。その出来が悪い時、それは悲惨です。
 

フラン・パルレ:舞台化粧に移りましょう。それはもう一つのあなたの活動ですね?
ジャン=ポール・アレーグル:そうです。私は演劇が勝ち組にならないだろうと思っていて…何故なら現時点で、演劇は存亡の危機とまでは言わないけど、2000年代に入ってから、そこまでは行かないだろうけど、それにしても現在の、私達の社会のようなタイプにおいては、演劇は脆いものです。他の形態の活動よりも儲からないので注意が必要です。だから、演劇が続くためには、絶対に学校や、教育機関を通して、若者に演劇を鑑賞しに行くという趣味を再び与えるべきです。それはとても重要なことです。そしてそれに付随して、舞台化粧など、演劇のお祭り的な面が存在するのです。本当に多くの場合、フランスでは、日本はどうなのかは知りませんが、70年代のフランスでは、劇場とは当然退屈する場所だと思われていました。当時、ある演劇を観に行ったら、それが4時間続いて、しんどかった等。私は自分の戯曲で、そして私の仲間達も同様にしていますが、劇場は退屈する場所ではなく、十分に活きる場所であることを連想させようと試みています。そこでは笑ったり、泣いたり出来るし、深刻ではないし、その両方を同時に体験することも出来るのです。笑ったり、泣いたりするということは、感情があるということで、劇場は感情の場所なのです。テレビには何も反対はありません。それがうまく制御されているときは、素晴らしい芸術ですが、テレビは、考えようとせずに消費する、ますます無情なメディアになってきています。劇場では違います。そこでは考えずにではなく、何故なら考える、という言い方はきついので、参加しようとせずに、成り立つことは出来ません。劇場での芝居は、もし観客がいなかったら完成されないのです。一方テレビの映像は、空っぽの部屋にも流すことができます。それは映像に影響がありません。誰もいない部屋で俳優が演じているところを想像して下さい。それは稽古の状態であり、場面は完成されていません。演劇は、愛情の行動であり、この愛情の行動が完成されるためには、そこに二人のパートナーが必要なのです。舞台上のパートナーは演出家、脚本家、メイクさん、照明係、衣装係、等の人達です。そしてホールの中のパートナーが観客です。両者が出会うとき、それは機能し、両者がそこに居ないと、機能しないのです。
 
2006年6月
インタヴュー:プリュウ・エリック
翻訳:粟野みゆき
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