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シャルル・デュモン、シャンソン歌手、作詞・作曲家
投稿日 2008年6月1日
最後に更新されたのは 2016年11月25日
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シャルル・デュモン:言葉を超えた感動
 
50年以上にわたって著名な歌手たちの為に作詞作曲をし、あるいは自身歌い、いくつかの映画音楽(ジャック・タチの「トラフィック」や「パラード」等)の横道にそれたこともある:これが常に新境地を拓いてきたシャンソン界の老練の士、シャルル・デュモンの特徴である。
 
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フラン・パルレ:あなたはどちらかというとジャズから入られたとか・・・
シャルル・デュモン:そうです、じつは私は子供の頃に始めたのです。私はディスコに行って、ニューオーリンズのジャズ・ミュージシャンがプレイしているのを聞いたのです。つまり本場のジャズ、アームストロングやファッツ・ウォーラーのジャズです。そこで私の父が言いました。「おい、お前は学校で勉強したくないなら、何がしたいんだ?」私は「音楽がしたい、トランペットが吹きたい」と言いました。私の父は極めて寛大な人で、彼自身もミュージシャンだったので、彼は私に言いました。「お前がそうしたいなら、そうだな、それはいい考えだ。」それで私はトランペット奏者になるべくトゥールーズの音楽学校に入学して、4年間トランペットを吹きました。それから私はパリのコンセルヴァトワールに入る為にパリに行きました。
 
フラン・パルレ:あなたは最終的に作曲家になられるのですよね?
シャルル・デュモン:当時、私はパリで咽喉の発作に見舞われた後、手術を余儀なくされ、手術が上手く行かなかったので、2年間トランペットの演奏を禁止されたのでした。その後にパリのコンセルヴァトワールに入るには遅すぎました。だから私はトランペットをあきらめたのです。私はポール=シルヴァ・エラールという素晴らしい紳士と出会う機会に恵まれ、親しくなりました。彼は私の落胆を見て取って、なぜなら私は絶望していたので、私が子供の頃に少しやったことのあるピアノをやらせてくれました。それで私はちょっとピアニストみたいになり、でも(生業にするには)遅過ぎましたので、和声学のクラスに入ったのです。それから兵役に行った時、一人の娘に恋をして、妻にしました。そして22歳で父親になりました。それから私の全人生は、シャルル・トレネに出会ったことで彩られたのです....それは音源を通しての出会いで、実際に会ったことはありません。でも私はシャルル・トレネやジャン・サブロンといった私が素晴らしいと思ったシャンソンを歌っている人達の大いなる賛美者、今で言うファンだったので、私は思いました。「和声学をやって、ピアノをやったのだから、シャンソンを書いたっていいんじゃないか?」そこで再び、私の父が介入して来て、私がこのシャンソンの仕事を始めるのに、歌手や作詞家、音楽出版社にコンタクトをとって、手助けしてくれました。私はこうして2、3年のうちに私が書いた歌を提供することを試みるまでになったのです。それから運命は定まったのです...ご存じでしょうが、ジャン・コクトーという偉大なフランスの詩人が書いているのですが、人生で成功する為には3つのとても強い要素からなる三脚が必要だというのです:少しの才能、もちろん、ちょっとは才能がなければいけません、なぜなら才能がないと...それから沢山仕事をしなければいけませんし、チャンスも必要です。人生の成功する為の三本柱です。
 
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フラン・パルレ:あなたにとってのチャンスは何でしたか?
シャルル・デュモン:私にとって、チャンスは私の全人生です....一度のチャンスではなく、複数のチャンスを得ることが必要です。チャンスは多くの顔を持っていて、あなたがそれを必要とする度に、そこに居るのです。あなたがどんなに働いてもチャンスに巡り会わなかったら、前進しません。私はまさにこの幸運に恵まれて、私が必要とする度に、一人現れたのです。よく、どうして沢山の愛の歌を書かれるのですか、と聞かれます。それにどうしてあなたは女性の為に書くのですか?愛の歌は、何故なのですか?それは私の人生が特別ツイているからで、私がその方面でチャンスを得たからです...現実に私が人生で援助を必要とする度に、もっと先に進む為に励ましてもらいたい時に、ほとんど毎回、一人の女性が居てくれ、私にアドバイスをくれ、助けてくれました。ここに注意して下さい、私は理想の女性像を言っているので、複数の女性との出会いではありません。なぜならそのように取られ始めるとすぐに、人はこういうでしょう––結局、それは彼がドンファンだったからだ(笑)、それはあなたが女性たちを誘惑したからだ、女性たちがあなたを助けたのだ、と。いや、私が思うには女性は紋切り型のモデルばかりではなく、寛容な、無償の行動が出来るのです。なぜなら彼女たちは生まれつき寛容だからです。全部とは言いませんが、多くがそうです。特に彼女たちは、必要な時に人を助けるように仕向ける本能が備わっている傾向にあります。彼女たちがその人を正し、誠実だと感じた時には。
 
フラン・パルレ:当然エディット・ピアフとの出会いはかなり重要だったのでしょうね。
シャルル・デュモン:私の人生での大きなチャンス、他よりも最も重要で、最も明白で、最も意味のあるものといったら、当然エディット・ピアフとの出会いです。これについては疑いの余地はありません。でも私がエディット・ピアフに出会った時、私はシャンソンを作り始めて既に長く、みんなの為に作っていました。ダリダ、サシャ・ディステル、ティノ・ロッシといった当時のあらゆるスターの為にシャンソンを作りました。だから、私の歌を歌って欲しい人で、説得出来なかった人は一人しか居なかったのです。それがエディット・ヒアフでした。私は彼女に何度も楽曲を提案し、毎回それは上手くいかなかったのです。1960年10月5日までは。その日、ミシェル・ヴォケールという素晴らしい作詞家とともに、私達はエディット・ピアフに「水に流して」というシャンソンを持っていったのです。そしてそれがまあ、私の人生の大きな、大きな、大きな転機となったのです。
 
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フラン・パルレ:どのような経緯で、ご自身で歌うようになられたのですか?
シャルル・デュモン:私はエディット・ピアフの為に仕事をする時間がありました。私は彼女の為に40曲くらい書き、そのうちの30曲はEMIのリストにあります。従って私はエディット・ピアフの為に本当に沢山のシャンソンを書きました。残念ながら彼女はとても早く旅立ってしまいました。だから私は彼女の人生で最後の3年間しか彼女を知らないのです。私は完全に方向を見失い、完全に不幸になっていたというわけです。エディット・ピアフとの、私はデュエットを書き、私は彼女と共にデュエットで一曲歌ったのです。その曲は彼女が詩を書き、私が曲を書きました。そして彼女はそれを一緒に歌うことを前提にしていました。その曲は今もなお歌われています。もっとも私は7月に東京に行った時に歌う予定です。それは「恋人たち」という題です。この曲は大きな成功を収めました。そのおかげで、私はエディット・ピアフのツアーにちょっと同行したのです。私は歌い始めました。その後1年か1年半の間、私は彼女とツアーをしました。私はあまり歌いたくなく、歌うことを遠慮していました。これがピアフが私に言ったことです:「私はあなたに歌って欲しいの。」だから、彼女は私にまさしく強制して、私の背中を押してくれたのです。
 
2008年6月
インタヴュー:プリュウ・エリック
翻訳:粟野みゆき



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