ドミニック・シポ:フランス俳句の達人たち
俳句が日本語に限定された文学ジャンルではなくなってからすでに久しい。詩人ドミニック・シポは、第一次世界大戦の開戦百年目を迎えて、その戦いを生きた男達が、自らの体験をフランス語で詠んだ俳句選集を編纂した。その短い表現手法は、電撃的な衝撃を書き留めるのに相応しい。
フラン・パルレ:貴方は、フランス語圏の俳句雑誌「プロック」の創刊者であり編集長です。そこでお尋ねしたいのですが、フランスでの俳句事情について、ちょっと語って頂けませんか?
ドミニック・シポ:フランスでの俳句は、一世紀以上前に始まりました。今や、かなり広がっています。日本に比べればその数はとても少ないのですが、それでも折々に、熱心に俳句を詠もうとしている人は、5千人位はいるでしょうか。あくまでもそれは推定ですが、1250人の雑誌の購読者があるので、そのような数字が割り出されるのです。
フラン・パルレ:学校教育の段階で、教師達は生徒達の文学的能力を高めるために俳句を用いたがるということですが…
ドミニック・シポ:ええ、選択権は先生方にあります。教育省は推奨しているのですが、義務ではありません。彼等が俳句を取り入れるのは、生徒たちに詩とか言葉に関心を持って欲しいからです。俳句は、短い表現であること、従って選ぶ言葉をよく検討し、用いる言葉の意味をよく吟味しなければならないというあの特性を持っていますから。それで、小学校の先生、中学高校の先生方は、俳句を用いたがるのです。その上、学校では、写真や造形芸術と組み合わせて俳句が詠まれるといった学際的な実験等も沢山行われています。
フラン・パルレ:フランス語で俳句をつくるということには、5-7-5、即ち17音綴で作るという制約の上に、さらなる制約を生みませんか?
ドミニック・シポ:フランスでは、2つの型の俳句があります。絶対に5-7-5の型に留めておこう、せいぜい1語前後の違いに留めようとする人たちと、もっとおおらかに詠もう、この制約にとらわれないで詠もうとする人たちがいます。今日では、事情はともあれ、最大限17音綴に止めることにしています。このような義務や制約があると、創作中の俳句の構造そのものに関して色々考えたり、とりわけ、詩句の切り方とか、季語のような構成要素に実際のところ関心を寄せるようになるので、創作活動をするのが楽しくなります。とはいえ、俳句作家は、後々この制約にとどまらなくなり、形式よりも俳句の精神を好むようになることがよくあります。そしてまた、3行、17音綴で書かれたものが、必ずしも全て俳句であるとは限りませんし、17音綴では意味をなさない思いや詩句を詠もうとする作家がいて、そうなると、これも正確には俳句とは言えなくなります。
フラン・パルレ:フランス語は主語と動詞を省略せず用いる言語なので、そのような短い手法で俳句をつくることに困難が生じませんか?
ドミニック・シポ:ええ、実際のところ生じるでしょう。日本語の利点は、フランス語のような正確な言い回しの言語ではないということです。それで日本語は、17音綴だけで、かなり広い範囲の視野を広げることが出来ます。一方私たちは、句づくりにあたって、いわば雰囲気作りのために、曖昧な表現にとどめようと努めます。私たちはしばしばこんな例をもちだします。私たちにとって、俳句とは、一枚の写真のようなもの、しかも、五感で見る写真のようなものだと。写真には、視覚的でしかないという弊害もありますから。また俳句を、油絵に対する水彩画に例えます。油絵は、私達の文化では、画布の隅々まであまねく塗りつぶすものですが、水彩画は、軽いタッチで描き、大部分は余白のまま残しますから。
フラン・パルレ:最近のお仕事として、貴方は、1914-18年の第一次世界戦争の俳句選集をお出しになりました。その動機についてお伺いしたいのですが。
ドミニック・シポ:私は、フランスの俳句や短歌の来歴に特に関心をもっております。今から10-15年前からです。それで、調査が進むにつれて、戦争にまつわる俳句をいくつか集めてきました。そのうち、ルネ・モブランという1920-60年代に俳句活動をした哲学者が、1920-25年頃、フランスで俳句の普及に心血を注いだことを知りました。その上幸運にも、私は俳句についての彼の書簡や草稿の数々を人からお借りすることができました。そこで、未刊行の戦争に関する俳句を探しあてたのです。これを何とかしたいと考え、これらの未刊の俳句を、すでに収集し出版していたジュリアン・ヴォカンスの作品を主とした俳句集に加えることに思い至ったのです。ジュリアン・ヴォカンスは、フランスの俳句の地位を実に高めた詩人です。1914年に、彼は塹壕戦を体験し、時には塹壕の、時には戦時病院での印象を書き止めました。彼は酷い傷を負ったのです。そんなわけで、彼は俳句を用いて自分の印象を書き止め、また、幾人かの人に、俳句の形式でめいめいの戦争の思い出を残すように指導しました。ですから、それらの俳句を見つけたことと、1914年の戦争から百年目という節目のこともあって、悲痛で非常に胸を打つこれらの俳句を一緒に出版したいと思いました。それはとても感動的です、この本のタイトルが示す通りです。胸にぐっときます、「顔のど真ん中に」、「面のど真ん中に」というタイトル通りです。ですから、この種の詩に対して無関心でいるわけにはいきません。ジュリアン・ヴォカンスは俳句界の第一人者でした。いや、フランスの俳句史上では二番目に登場する人物です。 最初の人は、ポール=ルイ・クシューといって、今の俳句とは違った形式で書き、今日では少々長すぎると考えられています。彼の俳句は17音綴の枠をゆうに超えているので、もはや俳句とはみなされないかも知れません。
フラン・パルレ:貴方はこの本の選者ですが、そのことが、貴方ご自身の作家活動に役立っているのか、どうなのですか?
ドミニック・シポ:私自身の仕事に関して申しますと、この俳句選集は、私がフランスの俳句史に関して上梓しようとした三部作の第2巻目にあたります。第1巻目は、ポール=ルイ・クシューに関するエッセーで、彼は、エコール・ノルマル・シュペリユール出身の哲学者で、文芸のパトロンであるアルベール・カ-ンが提供した旅奨学金を得て、2年間かけて世界を廻り、そのうち9か月間日本に滞在しました。フランス人宅に寄寓させてもらっていたので、もっと日本に長く滞在したかったようですが、日露戦争が始まり、日本を去ることになりました。その時、旅のみやげに、フランスに俳句を持ち帰りました。次に、1905年に、アンドレ・フォールとアルベール・ポンサンという2人の友達と、平底川船に乗り込み、砂糖の積荷降ろしの仕事を手伝って、彼らは若者でしたから、引きかえに、平底川船に寝泊まりさせてもらいました。1905年の7月一杯を彼らはパリからシャリテ=シュ-ル=ロワールまで旅をして回りました。日本の中を日本人の俳諧人達が旅したように、俳句を詠むことが彼らの目的だったのです。彼らは72句からなる小冊子を携えて帰り、それを出版しました。今日でいう自費出版というもので、30部印刷しました。私は、この小冊子にまつわるエッセーを書き、私のウェブサイトで見られるようにしています。そこでは、彼らが為したことを少々説明し、彼らが採用した俳句の規則とは何かを解説しています。同時に、私は、72句の俳句を通して、彼らが一種の連句を詠んだのではないかと論証しています。ある詩節と次の詩節との間に大いなる関連性があるからです。これらの関連性を念頭に読むと、作品をより深く理解できます。もしその小冊子から一句を無作為に選び出した時に、句の内容が理解できないことがよくありますから。この3部作の第2巻目は、ジュリアン・ヴォカンスに捧げました。彼は詩人で、フランスの俳句を、とりわけある社会層の人々の間で普及させることに貢献しました。結果、塹壕戦で詠んだ、「戦争100景」という題の本を書きました。多くの雑誌の中に出版され、何度も何度も取りあげられ、以後、俳句が躍進する礎になったのです。第3番目の人物が、ルネ・モブランで、彼は、1920年代に、俳句のために色々貢献しました。各地で講演会を開き、1923年には、400句に近い俳句選集を作っています。ですから、彼が、フランスの俳句第一期の最高峰だったといえます。要は、私はフランスの俳句史を辿りたいと考えたのです。今は、ルネ・モブランの本を作ろうと思っています。
2014年3月
インタヴュー:エリック・プリュウ
翻訳:井上 八汐
当時、検閲にひっかかった一句:
ぞくぞくと入荷の知らせ
支度済みの瑞々しき肉片(兵士)
今宵の食卓用に
―ジュリアン・ヴォカンス
顔のど真ん中に
銃弾命中
伝えし、胸にと、ー彼の母に
―ルネ・モブラン
http://www.100pour100haiku.fr