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2004年1月 『舞台装置を取り外して、ことばを無限にまで』
投稿日 2004年1月1日
最後に更新されたのは 2013年8月1日

『舞台装置を取り外して、ことばを無限にまで』

 現代フランスを代表する演出家のひとりであるクロード・レジィを囲んで、東京でシンポジウムが開かれた。ロラン・バルトのことばを引用したタイトルは、最近のクロード・レジィの舞台の本質をよくあらわしている。

 1950年代から演劇活動を開始したクロード・レジィは、マルグリット・デュラスやナタリィ・サロートなど、フランス、ヌヴォ・ロマンの現代作家の作品を取り上げる一方、ハロルド・ピンター、エドワード・ボンド、ボート・シュトラウス、ペーター・ハントケ、サラ・ケインなどの外国人作家をフランス国内で数多く紹介している。

 これまでに上演した舞台は70本近くにのぼり、そのほとんどがこのような新作やフランス国内での初演作品である。今秋にはパリ、フェスティヴァル・ドトンヌにおいて、コリーヌ国立劇場でノルウエーの作家、ヨン・フォッセの作品として3作目の演出となる『死についてのヴァリエーション』を上演した。

 シンポジウムでは、まず今回の来日に同行しているアレクサンドル・バリィが監督をした短いドキュメンタリー作品『深淵のクロード・レジィ』の映像が紹介された。そこには南フランスの広大な農家を改装したアトリエでのレジィの姿が写し出される。つづくさまざまな舞台写真を並べた映像では、現在映画などでも活躍しているミヒャエル・ロンダール、ジャンヌ・モロ、ジェラール・ドパルデュ、イザベル・ユペールなどの多くの出演した俳優たちの名前とともに、現代作家たちの名前もつぎつぎと読み上げられる。

 プログラムノオトに掲載されている膨大な演出作品リストを前にして、『ボーデン湖上の騎行』(P.ハントケ)『タンタジルの死』(M.メーテルランク)などの代表作から、スタジオ等で収録された『犯罪者』(L.カプラン)、それにワークショップにおける『レンツ』(G.ビュヒナー)の稽古風景まで、いくつかのシーンを映像で紹介しながら、レジィ自身がそれらの演出手法の特異性を示すコメントを付け加えていく。それらのレトリックに満ちた断片的なフレーズが、類いまれなクロード・レジィの演劇観にふれることとなった。

 しかしレジィにとっては、これらの映像は副次的資料であるばかりか、演劇と映像は根本的に異なること、むしろ映像は演劇を台なしにしかねないと語り、やはり直接的に舞台に接すること、劇場において創作された演劇空間への参加が重要であることを強調していた。

 このように外国作家の作品を数多く上演することになった経緯については、初期の英国作品の上演以降、外国からの作品が送られてくるようになった。テクストに対するこだわりも強く、ことばの意味の多義性や繰返しなどの根源的な問い直しや、登場人物の対話の有効性についての確認が必要であると語る。レジィにとってはテクストがもつ物語性も、口頭伝承的物語が、世代間をこえてつねに変化していくように、固定観念的なものではなく、けっして重要な要素とはなりえない。

 またデュラスが、『エデン・シネマ』のテクストにおいて、物語と語りを分離したように、舞台上のイメージと観客席の俳優のせりふの声が劇場空間を充たし、それぞれ個別的に観客の無意識に届くように、さまざまな試みがなされてきたという。このようして、レジィの舞台は彼らが見失っていたものを意識上に喚起し、彼らの想像力を刺激して記憶を掘り起こすこととなるといえるのであろう。

 その一方、俳優の身ぶりとことばは、同じ根源から出てきたものであり、ことばは身ぶりの一部として発せられるべきだとする。それらの根源を探りながら、身ぶりもことばも、それぞれが細部に解体されていくことによって、それらの進行は必然的に遅くなっていく。俳優たちはつねにそれらの根源を見い出そうとしないかぎり、演技の真実性は失われてしまう。いわば宙づりの状態を探ることによって、俳優にも観客にも無限の可能性が開けることになるのである。

 そのようなことから政治性のある意図的な方向性を与えるような演劇や、レアリスティックな演劇に対しては物質的現実をコピーすることによって、観客の精神性や意識を壊してしまうだけだと異を唱える。

 そして、昨年上演した『4時48分サイコシス』の若い英国人作家サラ・ケインの「わたしは希望をもつことなく境界を語るだろう」ということばを引用しながら、演劇の仕事は社会において当たり前に存在するとされている境界というものを曖昧にすること、そのことを示すことによって、この世の中には明瞭であることは何もないのだということを観客たちに知らせることなのではないかという。

 それは正気と狂気の境界であり、また同時に生と死の世界の境界である。前者は、このケインやカプランの作品、エマ・サントスが自身で演じた作品がテーマとする境界であり、反精神病運動の流れに沿ったものだという。一方後者は、『タンタジルの死』やヨン・フォッセ作品がテーマとする境界である。西洋の思想は生と死を明確に区別してきたが、人が祖先から子孫へ繋がった存在であること、生においてつねに死を意識する必要があることを思い出すべきだという。

 このようななかで、レジィの創作する舞台は、近年において、一作ごとにますます研ぎ澄まされてきている。装置が取り払われ、わずかな登場人物が、舞台上をほとんど動きもなくとどこおり、身ぶりもゆっくりと最小限に押えられている。そして、そこにごくわずかな照明があてられ、あるいは、逆光の影をつくるための光が浮かび上がってくる。それらは「形而上学的な儀礼」もしくは「霊魂や根源的苦悩が呼び出される儀式」とも評され、観客たちはそこへの参加を余儀なくされる。しかし、クロード・レジィは、このような最小限の演劇的要素によってこそ、観客は最大限の想像力を与えられることができるのだと主張しているのである。観客にこそが、それぞれのための演劇を再創造するという積極性が求められているのである。

 進行役のパトリック・ドゥ・ヴォスは、レジィの演劇は、劇場で観るだけでなく、終演後に劇場をあとにしたのちにも、その舞台経験は持続され、あるいは睡眠中の夢のなかにおいても、その演劇を追経験するような作用があると説明する。1999年の『誰か来る』(J・フォッセ)以降の作品を観ている三浦基は、最近のレジィ演出のこれらの特異性について語り、その舞台から学ぶことが多いという。

 そして、その創作作業をともにしているバリィは、レジィが演劇に対してのみならず一般社会的関心も高い一方、新しいことを吸収しようという姿勢も強いことを紹介する。稽古期間が長期にわたること、俳優のみならず、技術スタッフなどにとっても、それらの準備期間が厳しくて困難なものであることを付け加える。

 ただ、クロード・レジィは、このようなシンポジウムを教訓として聞いてほしくない、すばらしい創作は理論をはみだしたところにあるのだと、最後にもはぐらかしてしまう。

(2003年11月20日こまばアゴラ劇場)

テオロスフオーラム 松原道剛
http://www.ne.jp/asahi/theoros/forum

テオロスフォーラム 連続セミナー2003年度秋期

『パリ劇場日誌02/03』
Journaux théatraux de Paris 02/03 réalisés par Ryuko Saeki>
講師 佐伯隆幸
北沢タウンホール集会室 (下北沢)
Kitazawa Town Hall, Shimokitazawa

■第1回 2003年12月11日(木)19:00〜 vol.1 le 12 décembre 2003
クロード・レジィ『4時48分サイコシス』(サラ・ケイン)
Claude Régy, 4.48 Psychose de Sarah Kane

■第2回 2004年1月15日(木)19:00〜 vol.2 le 15 janvier 2004
マチアス・ラングホフ『レンツ、レオンスとレーナ』(ゲオルグ・ビュヒナー)
Matthias Langhoff, Lenz, Léonce et Léna de Georg Büchner

■第3回 2004年2月13日(金)19:00〜 vol.3 le 24 février 2004
エリック・ラカスカード『プラトノフ』(アントン・チェホフ)
Éric Lacascade, Platonov d’Anton Tchekhov

■第4回 2004年3月未定19:00〜 vol.4 mars 2004
パトリス・シェロ『フェードル』(ジャン・ラシーヌ)
Patrice Chéreau, Phèdre de Jean Racine>
■第5回 2004年4月未定19:00〜 vol.5 avril 2004
オリヴィエ・ピィ『繻子の靴』(ポル・クローデル)
Olivier Py, Le Soulier de Satin de Paul Claudel

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