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2004年5月 連載「演劇フラヌリー」第1回 アザマとアレーグル
投稿日 2004年5月7日
最後に更新されたのは 2015年6月25日

佐藤康 ドラマトゥルグ

◇はじめに
 今回から、東京を中心に上演されたフランス語圏の演劇について、批評を書くことになりました。インターネットということもあって、気軽に読んでいただけるものにしたいと思います。性急な硬派批評に走り出すのをじっとこらえて抑え、「そぞろ歩き」で行こうと自戒をこめつつ、「演劇フラヌリー」と題しました。まずはよろしくのご挨拶。ご愛読を願います。

◇アザマとアレーグル
 3月には現代の劇作家のなかでも好対照をなす2人の作品が上演されました。ミシェル・アザマとジャン=ポール・アレーグルです。アザマについては本紙4月号のインタビューにも紹介されていますが、『夜の動物園』が沢田次郎さんの主宰するアクターズ・スタジオ櫻会で上演されました。演出は沢田さん。翻訳は私です。 
 これに対して、アレーグルは岡田正子さんのプロヂュースする「フランス演劇クレアシオン」によって、『アニェス・ベラドンヌ』が岡田さんの訳・演出で上演されました。台本が雑誌「テアトロ」の2001年1月号に載っています。この作品はアレーグルの最新作ですが、ニースのラ・コンパニー73という劇団と、この日本上演が世界同時初演なのです。Avant-Sc熟eという演劇雑誌がフランスにありますが、この作品が掲載された号(2004年3月号)には日本の出演者の稽古風景がたくさん写真で載せられています。こういう企画は国際交流の成果として歓迎すべき試みです。

 さて、アザマとアレーグルは共に「演劇作家協会」EAT(Ecrivains Associés du Théâtre)という組織の役員を務めています。アザマが会長、アレーグルが副会長ですが、それはともかく、EATはひとことで言うと、フランス演劇界における新作上演を推進するための団体で、およそ350人の(!)劇作家が会員です。いずれ詳しくご紹介する機会があることでしょう。で、この2人はとても仲良しなのですが、作風は全然違います。演劇観から見ればEATの劇作家はアザマ派とアレーグル派に真っ二つです。
 アザマは、ジャン・ジュネやベルナール=マリ・コルテスと親交が深かった人で、作品もその系譜にあります。俗語を詩的なリズムで多用したり、うねるようなモノローグがあったり、と、お世辞にも標準的なフランス語とは言えません。インタビューでアザマが言うように、彼にとっては演劇を書くことは、新しい演劇言語を創出することなのです。作品が扱う主題も、とても重い歴史性や社会性をふくんでいます。しかも言葉では説明できないような人間社会の謎の力に迫ろうとしています。出てくる人物はたいてい罪人、暴君、殺人者、裏切者…、つまり、アザマは人間の「悪」に照明をあてるのです。誤解をおそれず言えばアザマは「芸術派」です。
 これを全部ひっくりかえすとアレーグルの作品の特徴になります。言葉は教科書的にきちんとしています。社会的主題はありません。ピランデルロさながら演劇というしくみを利用して、虚と実の回転運動そのものに作品がささげられます。すべてが「遊戯」です。アレーグルは「戯作派」なのです。でも、すごく巧い!
 芸術と戯作は後世の目からみれば前者がいつも文化の勝利者でした。しかし、演劇については今、お客さんが入らないと作品は演劇として立ちあがらない、という切実な問題があります。演劇作品はいったん「文学」の領域に身を潜めないかぎり、後世における復活はありません。つまり、アザマじゃ物好きなインテリしかお客になってくれないという問題があるのです。それはそれでいいのですが、問題はそういう演劇を「公共劇場」でやってていいのか!と釘をさされることです。ジャン・ヴィラールの名言があります。「演劇は電気や水道とおなじ公共サービスだ!」。だとすれば、水道管に奇特な趣味の人しか飲めないような液体を流すことは許されません。ならばアレーグルを見て笑って、泣いて感動しよう、というわけです。実際、地方の小劇場を中心に、現在もっとも上演回数が多い劇作家はアレーグルです。

 フランスではこういうふたつの対立はべつに内紛を招いたりはしません。フランスでは「劇場」という「場」を意味するth脂treがそのまま「演劇」という意味であることが明解に示すように、「演劇」は劇場を中心に組織されます。ですから演劇=劇場にはアザマもアレーグルも必要だということを「劇場」が分かってさえいれば、それでいいのです。

◇ミシェル・アザマ作『夜の動物園』(アクターズ・スタジオ櫻会。翻訳・佐藤康。演出・沢田次郎。 2004.3.10〜21。櫻会スタジオ)
 この作品は廃墟を舞台にしています。社会からドロップアウトしたアウトローたちが巣食う世界です。具体的な場所の指定はありません。きわめて抽象性が高い芝居です。ジョーという男と、サラという女性が中心にいます。サラはジョーとの間に子供を産んだばかりなのですが、ジョーは赤ん坊をサラから取り上げてしまいます。ジョーにはマイクという子分の男の子がいます。このマイクとジョーがサラをめぐってライバルになります。いっぽうサラはマイクを手玉にとって赤ん坊を返してもらいたいわけです。ところがこの世界に金満家の「男」が潜入してきます。男はこの廃墟に「息子」を探しに来たのだというのです。そしてジョーはこの男から何かを奪おうとしています。こうして4人の力関係が刻々と変化するのを短い場面をつなぎ合わせるようにして舞台は進行していきます。これを連続的な連鎖として構成した沢田さんの演出は、見事な「読み」に基づいていたと思います。で、結局、赤ん坊を返してもらったサラはジョーと縒りを戻すかに見せて、(ということはマイクが排除されることになります)、男に赤ん坊を売って、ひとりこの廃墟から抜け出していくのです。男も息子の代理を手に入れることになります。この非情な世界を支配する「金」と「命」のドラマは壮絶です。
 櫻会スタジオという狭い空間ならでは、きわめて密度の高い演劇が展開したと思います。

◇ ジャン=ポール・アレーグル『アニェス・ベラドンヌ』。フランス演劇クレアシオン。翻訳・演出岡田正子。2004.3.26〜31 シアターΧ。
 バック・ステージを題材にした作品です。アニェスという大女優が公演を終えて戻ってくる楽屋が舞台です。ロングランの公演で、この作品はその初日の模様、30回目の模様、100回目の模様、200回目の模様を順に追っていきます。アニェスの楽屋に来ていた女優志望の女の子が、しだいに成長してアニェスを追いぬいていきます。新聞記者もプロデューサーもしだいにこの若い女優をちやほやし始めます。命を削るように演劇に全てを捧げたアニェスは100回目の公演後に息絶えます。公演はその若い女優が引き継ぎますが、その楽屋にはかつてのような演劇への愛がありません。それを嘆くのが昔からの衣装係のおばあさんだ、という芝居です。
 素朴でいいです。素晴らしい演技を見せたのはアニェス役の塩田朋子さん(文学座)で、日を追うごとに真に迫るものが出てきました。
 しかし、これはただ、演劇っていいもんだね、というメッセージしか発しない作品です。観客もそれをお互いに確認しあう。これもまた前衛の自己満足とは逆の意味で、やはり閉鎖的な自己満足に終わります。

◇3月は他に世田谷パブリック・シアターでグザヴィエ・デュランジュ作「男たちの物語」のリーディング公演。それからサミュエル・ベケットに毎年取り組んでいる鈴木理江子さん出演の『あしおと』があったのですが、残念ながら私の翻訳公演が連続してしまって時間が許さず、見に行けませんでした。失礼ながら割愛させていただきます。

◇ ジャン・コクトー作『つれない男・人間の声』。翻訳・佐藤康。演出・沢田次郎。2004.4.1〜4.8 櫻会スタジオ。
 コクトーの『人間の声』(『声』とされる場合もあります。)は有名なモノローグ劇です。5年暮らした恋人と別れたばかりの女性が、その恋人と電話口で語るのです。平然とした受け答えをしているうちに、しだいに男への愛情がこみあげてきて、悲痛な愛情の吐露に終わるドラマです。作曲家のプーランクがオペラにしているのもよく上演されます。
 この公演は今を去ること2年前、俳優座の平田朝音さんから持ちかけられた相談に発端があります。コクトーのモノローグ、『人間の声』を上演したいのだけれど、既存の翻訳が年代を感じさせてしまって具合が悪い。リニューアル版を作ってくれないかと言われたのです。さっそく既存の翻訳をいくつか読んでみると、なるほど主人公がいかにもブルジョワ然としたマダムで、「〜してあそばせ」「そうじゃございませんのよ」という感じです。たしかにそういう設定ですし、文体もけっこう凝っていますから、そういう訳になるのも分からないではありません。しかしどんな名女優がやっても、もうこの日本語にドラマを盛り込むのは苦しいと思われました。賞味期限が切れました。そこで、すごく軽い現代風の日本語に訳し直そうと思って台本を仕上げ、今回の上演にこぎつけました。さらに『人間の声』は上演に50分もかからない作品ですから、もうひとつ抱き合わせになる作品がほしかったので、同じコクトーの『つれない男』(コクトー全集では『美男薄情』)を選んで組み合わせることにしました。これはコクトーがエディット・ピアフのために書いたモノローグで、恋人の男を夜のホテルで待っている女が主人公です。ようやく帰ってきた男は、さんざん愚痴を聞かされて、再び部屋を出ていきます。こちらは平田さんと旧知の林勇輔さん(スタジオ・ライフ)が出演してくれました。林さんは男役も女役もできる俳優です。ならば女の別れ話が二本続くのもしんどいので、『つれない男』のほうは思いきって男(ホモセクシュアル)の話にしてしまおうと考えました。
 2作品いずれも、別れの修羅場を扱っていますから、情緒に流れると中盤でドラマが極点を迎えてしまって後半がシラケます。軽くやろうとすると細部の陰影が消えてしまいます。こういうモノローグを10ステージやるのはたいへんです。うまく行った回と、そうでない回があります。
 翻訳が舞台化されたのを見ての感想ですが、軽いノリの日本語にしたわりにはシチュエーションが重いので、ちょうどいい感じになったかなと思いました。私としては翻訳劇であるとあらざるとにかかわらず、芝居の台詞は自然であってかつ日常会話そのものとは位相を異にする文体が望ましいと考えています。
 
 それでは今回はこれで。

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