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2004年7月 ナタリー・エニック氏講演会「現代芸術の社会学」
投稿日 2004年7月6日
最後に更新されたのは 2013年8月1日
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ナタリー・エニック氏講演会「現代芸術の社会学」

 現代芸術はある種の方法によって社会学を実践しています。なぜなら、それが、作品が受け入れられるか否かの境界線に対して常に働きかけているからです。現代芸術に対する拒否反応、及びそこでの議論を調べることにより、現代芸術の根本原理を社会学的に理解することが可能となるでしょう。
現代芸術によって引き起こされた論争を分析すると、そこで問われているのは、作品の美しさではなく、作品の性質をめぐる存在論的な問い、更には、作品の価値に関する倫理的な問いなのです。現代芸術は本質的に、既存の芸術と断絶しようというあらゆる形の試みに基づいています。この違反としての断絶は、現代芸術の基本的な要素である表現の主観性や信憑性に抵触する場合、重要なものとなります。そして、現代芸術の受容の困難さは、それが芸術の価値を変えようとしている時に極まります。芸術の価値は、もはやそこで何が示されているかということではなく、それが芸術家と、作品を見る者との間で生じた媒介物全体のうちにあるといえます。
 芸術に於ける、古典、近代の伝統に特有な規範の数々を絶えず侵犯することは、現代芸術を古典芸術とはっきり分けることとなりますが、近代芸術と区別することにはなりません。なぜなら、近代芸術もまた、芸術の伝統的な規範を侵犯するべく一連の試みを行ってきたからです。逆に、近代芸術との違いが際立つのは、侵犯行為が単に審美上の枠組みとかかわるだけでなく、文学、音楽、演劇、映像といった多様な表現の混合によって芸術の分野に関する枠とかかわる場合、或いは道徳や司法にかかわる枠の場合であり、こうした侵犯は素材そのものを対象とする時に、一層際立つことになります。
 第一のカテゴリーである古典芸術は、造形に立脚し、現実的なものを与えるためのアカデミックな規則を重んじ、第二のカテゴリーである近代芸術は、古典と同様、伝統的な素材に敬意を払っているのですが、それが芸術家の内面に基づいていたという点で古典芸術とは区別されるのです。古典主義においては二義的であったこの内面性の要請とは、芸術家の観点が、個人的、主観的であることです。印象主義、フォービズム、キュビズム、そして抽象は造形的に形態を通して画家のものの見方を明らかにし、一方シュールレアリスムは心の中のイメージを幻想的に扱っています。作品によって表現された内面性という基準は曖昧なものです。なぜなら、主観の次元に結びついた指向性の水準と、客観の次元と結びついた解釈の水準とが明確に分けられないからです。しかしこうした曖昧さは、第三の水準、即ち内面的なものが外に向かう次元とかかわる物質的な要素を考慮に入れさえすれば取り除くことが可能です。内面性というのは実際、単に芸術家の主観性にのみかかわるわけではなく、信憑性の要請ともかかわっていて、作品は芸術家の身体と結びついていることを明らかにしなくてはなりません。芸術家の思考、知覚、感覚からその仕草に至るまで、近代芸術が古典的な素材を用いながら誇示しているのはこの結びつきに他ならず、筆や鉛筆、素材といったものが芸術家の身体と実現された作品との連続性を保障しているのです。素材における表現と内面性は芸術家の内側に属するものによっても媒介されていますが、現代芸術においては、素材がしばしば別の領域に属しているため、そうした要素はより外に現れています。したがって、内面性に対する信憑性の次元が、近代芸術と現代芸術を区別する基準となります。そして芸術におけるこうした内面性の要請は、一つの近代的なパラダイムであるといえるでしょう。
 近代に属する芸術家達はアクチュアルな芸術を導きましたが、第二次世界大戦後、別の方向が現れました。仮にマルセル・デュシャンをその先駆者とし、イヴ・クラインをそのパイオニアの一人とするならば、彼らは内面性の要求を二つの次元で試しました。即ち、主観性をモノクロームで、信憑性を人体測定でテストしたのです。古典、近代と違って、そこには画家の手による制作というものが欠けており、よって新しいジャンルが生まれたのです。それを擁護する人々はそこに新しいパラダイム、即ち今日現代芸術と呼ばれるものをみようとしたのです。
 現代芸術における、美術館や公共空間の境界侵犯、信憑性や道徳、法の境界侵犯といったものは、ある人々にとっては害のない挑発に過ぎなくても、他の人々にとっては積極的な意味を持つ破壊となり、こうした侵犯行為が、現代芸術における共通項だとみなされています。それは問題を抱えつつも、古典、近代芸術の抱える様々な傾向と共存しているのです。この侵犯行為は、芸術家達によって試みられ、それを見る人々によって受け入れられ、或いは拒絶され、様々な組織に組み込まれ、場合によっては他の芸術家達により一層ラディカルなものとされたりしながら芸術の価値基準を逆転させるのです。そして価値の問題は作品の性質の問題へと移行し、ある作品がどのような価値基準の位置にあるかを決定することはもはや重要ではなく、芸術とそうでないものの境界線上で、作品の占める場所を定めることのほうが重要となったのです。
 近代のパラダイムに従うならば、芸術の価値は必ず作品の中にありました。そして作品の外のいかなるものも、作品の内なる価値を示すことはできないとされてきました。一方現代のパラダイムでは、芸術の価値は作品の周辺、或いは作品から生じる様々な関係の相対といったものの中にあるとされ、もはや作品は一つのきっかけ、口実、中継点に過ぎないとみなされるようになりました。作品にまつわる様々な要素が、作品自体と同様に、もしくはそれ以上に作品の構成に貢献するのです。そして、作品のみでは、古典、近代への帰属という最初の段階と、現代に属しているという第二の段階を区別することはできません。作品が属しているカテゴリーを明確にするためには芸術家が辿った道や言葉といった、幾つかの周辺的な徴に頼らざるを得ないのです。即ち、現代芸術に属しているかどうかの基準は、社会的な基準であり、作品の造形的な性質よりも、芸術家のパーソナリティや制作のコンテクストと結びついているのです。従って、現代芸術は、芸術を組み込む力をシステマティックに試しているという点において、社会学を実践しているといえるのです。
 現代芸術を芸術の一つのジャンルとして受け入れるためには、現代という言葉を時間的にではなく、カテゴリーといった考え方で見なければなりません。このような見地のもとで、デュシャンやマレーヴィッチは、近代の文脈で制作したにもかかわらず、現代芸術に属しているといえるし、逆に、今日制作されたものでも、現代芸術に属さないものもあるといえます。そして、創造の場は、芸術家が制作した作品という物質的な次元から、行為という非物質的な次元へと移行しました。芸術を受け入れる可能性の境界がこのように変化したことで、デュシャンから半世紀を隔て、様々なコンセプチュアリスムが生じ、それが芸術にかかわる基準を相対化したのです。それは同時代に、他の芸術、音楽、詩、演劇、ダンスなどにおいて見られた同様の運動のみならず、社会科学における最初の前進とも重ねられたのでした。
 もし何らかのありふれたものが芸術家によって扱われることで芸術作品になるのだとすれば、芸術家とは、芸術作品を作る能力を持つ人であると定義されます。従って問題は、この能力をどのようにして認めるかという認証の問題へと移行するのであり、これこそまさに社会学の対象となるのです。タブローを作り出すのは見る者の眼差しであるというデュシャンの言葉は有名ですが、それは、タブローを作り出すのは作品の質ではなく、作品に向けられた眼差しの質だということです。
 現代芸術をこのような形で示すことは、二つの大きな利点があります。第一に、今日現代芸術が引き起こす論争の激しさを理解することを助けてくれます。その論争は同じ軸の上で趣味や質の程度を競っているのではなく、パラダイム、言い換えれば、芸術と称するものを前にして、芸術とは何であるべきかということをめぐる対立となっています。その場合、パラダイムの外にあるものは全て無価値とみなされ退けられるのですが、現代芸術に対する拒否のほとんどについてこのことが当てはまります。第二に、ここで提案している考え方は、現代芸術をめぐる紛争を解決するわけではありませんが、少なくともそれを有益なものとする、という利点があります。実際今日、芸術を構想したり実践したりすることに複数の方法があることを人々は受け入れています。というのもこの多様性によって、論理的には相反する制作することと見ることの様々な方法が、共存することが可能になるからです。よって、芸術の諸カテゴリーを、排他的なパラダイムと考えるのではなく、排他性を主張しないジャンルと考える必要があるのです。
 現在実践されている芸術は三つのカテゴリーによって構造化され、それぞれ固有の質をめぐる規範に従っています。問題は、このように芸術が、規範に関しては階層化されているという実態にあります。こうしたジャンルの多様性の存在を認識できないまま、人は類的な基準と評価の基準を混同する傾向があり、類的な基準とかかわる作品の境界侵犯的な性質についての議論を、質の基準を考えるために引き合いに出すのです。そのために現代芸術を擁護する人も拒否する人も、ある作品を擁護すべきか否かという基準を明確にできないでいるのです。
 現代芸術を今日取り巻いている派閥争いの中では、現代芸術の支持者も敵対者も、以上述べたことから、どのような道に導かれるのか気にすることとなるでしょう。最も人を困惑させるような芸術が、実はある一つの論理に従っていて、決して何でもありというわけではないということ、また、この論理が専門家たちが見出しているものと同種でないことは、ある人々を喜ばせたり、他の人々を怒らせたりするでしょう。しかしながらそれでよいと考えます。というのも、社会学者の役割とは、派閥の争いに与することではなく、問題に参加しながらも、様々な立場を行き来することが出来るように中立の立場を構築しながら、そこで展開されている争いの論理を理解することだからです。

ナタリー・エニック氏プロフィール
現在国立科学センターの主任研究員であり、社会学と芸術にかかわる問題及び、女性の地位等の問題を専門としている。主な著書に、Le triple jeu de l’art contemporain, États de femme. L’identité féminine dans la fiction occidentale, La sociologie de l’art など。

                                日本語要約 舞木志乃


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