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2004年 12月号 演劇フラヌリー 第7回 
投稿日 2004年12月6日
最後に更新されたのは 2015年6月25日
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演劇フラヌリー 第7回 

大人は笑ってくれない
 10月下旬から11月上旬にかけて、ギィ・フォワシィ作『湾岸から遠く離れて』が、東京・銀座みゆき館劇場で上演されました。ギィ・フォワシィ・シアターの公演です。私が台本を作る形で関わったので、稽古場にも公演にも何度も足を運び、舞台の仕上がりをつぶさに見ることができました。私の舞台翻訳もかれこれ10本目近くになり、慣れてきたとは言いながら、やはり貴重な経験もしましたので、今回はそれをめぐって書こうと思います。

 『湾岸』(と略します)は中東と西洋との緊張が高まり、その一方ではフランス国内に移民排斥をさけぶ国民戦線が台頭した時期に書かれた作品です。執筆後に湾岸戦争が起こり、ひいては近年のイラク戦争にまで歴史の歯車が回ったことは言うまでもないことですが、作品にはイラクという特定の国が意識的に描きこまれているわけではありません。

 父親を失った後、母と娘が密室のようなアパルトマンに暮らしています。主題のひとつはこの母娘の関係です。親の面倒をみているうちに婚期を逸し、ついには神経を病んで休職中の娘ジュリーの内気な性格とは対照的に、母は娘との平凡で退屈な生活に嫌気をさしている活動的な性格です。けれども母親は娘に家を出て行ってもらっては不安なので、わがままな愛情を娘に注ぎ、娘の自由を抑圧しています。母と娘はともに、相手に対する依存と反発の愛憎をアンビバレントに抱えて、引き裂かれています。この閉塞を打ち破ろうと、母は娘の承諾もえずに、中東からの移民エルザールをアパルトマンに下宿させます。

 ところが、この男が実に真面目で誠実な男です。祖国に残した妻子を愛していますが、しだいに母娘と打ち解けるにつれて、ジュリーと憎からぬ想いを抱きあう関係になりました。話のはずんだある晩のこと、エルザールとジュリーは、男の祖国の求愛の儀式のようなダンスに身をゆだねるのでした。しかし、男にはジュリーの愛を受け入れることができません。

 それからしばらく、故国の家族が空爆で全員死んだ、という知らせを受けたエルザールは自室でピストル自殺します。そして母と娘だけの抑圧的な生活は、なおいっそうの病的な翳りをおびながら続いていくのです。

 作品中、戯画的に描かれる排外主義者の管理人の言動が喜劇の色合いを強めますが、全編を通しての印象はとても残酷なものです。戦争の残酷さ、愛の残酷さ、家族の残酷さがひとつに重ね合わされている、これはフォワシィの最高傑作だと言っていいでしょう。

 もちろんこの残酷さの裏面にはヒューマニズムが流れているわけで、いわゆるフォワシィ劇の「ブラック・ユーモア」なるものが、ここでは非常に深刻な主題と結びつけられています。しかしながら、この意味でのヒューマニズムこそが、フォワシィ作品のすべてにまつわる最大の弱点になっていることも否定できません。フォワシィがいささか露骨すぎるくらいに、ことあるたびに作中人物に言わせる「犠牲者」を生んでしまうこの社会というモチーフは、考えてみればそもそもは、ヒューマニズムが機能不全に陥って失効してしまった状況に発生している問題なのです。したがってここに生じる矛盾を隠蔽、回避するかぎり、フォワシィの批評性は衰弱したものにしか映らない、という一面があります。

 そしてさらに言えば、この衰弱には誰しもが気づいているにもかかわらず、ひとつの作品を閉鎖的な完成体として考える近代劇の前提から抜け出せず、作者の構想の忠実な反映をひたすらめざす近代劇演出=新劇が、作品内部の分析を研ぎすませば研ぎすますほど、ヒューマニズムの機能不全がますます露呈してくるという悪循環があります。

 その問題は措くとして、『湾岸』の残酷さは「笑い」と「涙」の対照が際立つほどに効果的です。母親のわがままぶり、管理人のオーバーな外人嫌いが喜劇的な効果を持つこと、そしてジュリーとエルザールの愛の運命が切ない情感をたたえること、このふたつが両方そろうかどうかが上演の成否をにぎります。とりわけ、母親が娘にいろいろ用を言いつける台詞にこめられたアイロニーは、フォワシィの筆が冴えているところです。ボクシングのパンチになぞらえれば、そこがジャブになって、管理人のストレート・パンチの炸裂を呼ぶ、というしくみになっています。

 喜劇的な会話の随所にちりばめられた「くすぐり所」には、原典を直訳しただけでは箸にも棒にもかからない箇所が多いので、そこが翻訳者の苦労のしどころでもあり、また腕の見せ所かもしれません。(もっと大事なことはいっぱいありますが、・・・)。私は、舞台翻訳は、学術的翻訳とはまったくの別物だと考えています。しかし、原典に存在しないような要素を勝手に付け加えることはしないようにしています。何も足したくありません。しかし反対に、上演時間とのからみによる演出家によるカットは行われますし、つながりの悪い細部があった場合には、そこをカットして上演することはあります。引き算は行われます。原典と翻訳の関係は相同的なものである必要は必ずしもなく、いわば親子です。原作者が父親で、翻訳者が母親、二人の子が翻訳作品です。原作の論理的な骨組みは台詞の細部にいたるまで最大限に残しつつも、やはり日本語で行われる芝居の台本としての化粧はしなければならないと考えています。今回の翻訳でいちばん神経を使ったのは、日常的で自然な会話と、フランス語特有の(というか多分にフォワシィの文体でもある)硬質な抽象性とのバランスです。世の中には、舞台台本というのは何が何でも「自然な会話」にすればいいのだ、と考えている人もいるらしいのですが、渡辺守章先生流に言えば「虚構の身体」に基づく演劇の言語は、やはり虚構のパロールであるべきだ、というのが私の立場です。

 少し具体的な話をすれば、舞台翻訳の「笑い」でいちばん厄介なのは、原作の地口(駄洒落)の問題です。私の方針は駄洒落に関しては無理をせずにパスします。無視するのです。無理やり日本語の駄洒落に置き換えるようなことはしません。駄洒落、すなわち言語の連辞(パラディグマティック)の戯れは作品のアイロニーを破壊するよう思うからです。さすがにフォワシィも『湾岸』には駄洒落を使っていません。しかし、たとえば同じフォワシィの『爆弾ごっこ』のように、駄洒落を言うという行為そのものが、筋の展開に重要な影響を与える場合、しかたがないので日本語の駄洒落を考えて翻訳することになります。正直言えば、これはあまりうまく舞台効果をあげたためしがありません。一方、フランス語の慣用句が効果的に使われている原作では、その面白みを極力活かして翻訳するべく取り組みます。『湾岸』では、エルザールが「ほうれん草にバターをぬる」(=収入を増やす)という慣用句を、誤ってべつの野菜の名を言ってしまうくだりがあります。これはずいぶん悩んだ末に、エルザールが「左団扇」と言うべきなのに「左前」と言ってしまう翻訳にしました。

 原作では笑いをとるべく書かれていないところでも、翻訳の文体を工夫すると笑えそうになる箇所については、(もちろんその効果がほしい場面で)私はけっこう大胆に「遊び」ます。原作の字義的内容を変えないで、笑える日本語に操作します。やはり『湾岸』の例で言えば、「私が警備員です」と管理人が言う台詞は、「ザ・ガードマン」になりました。押し問答の末に管理人が「そうです」と言うところが、クイズのように「正解です」となりました。

 笑わせどころ、泣かせどころ、それぞれに翻訳者としては苦心しているのですが、公演の客席で観客が笑ってくれたり泣いてくれたりすると、やはり翻訳者としては冥利に尽きるというところでしょう。(私はけっして前衛一辺倒なのではなく、けっこう「笑わしたろか、泣かしたろか!」という芸人根性、好きなのです!)しかし、ただそれだけでは吉本新喜劇ですし、やはり、インテリとしての(インテリのための、ではないが)演劇「芸術」をめざしていますから、それだけに終わらせるわけにはいきません。作品全体に流れるアイロニーがあって、そこに笑いと涙が加わる、という基本は忘れてはいけません。それでも、客席に腰を下ろすと、今日は笑ってくれるだろうか、泣いてくれるだろうか、と心配です。

 観客の反応はステージごとに一様ではありません。笑いの渦が起こることもありますし、不思議なくらい醒めた反応のときもあります。芝居がナマモノだ、生き物だ、と言われる所以です。この現象の要因は観客の側と、俳優の側の双方に求めることができますが、主因は俳優の側にあるのでしょう。ほんの僅かな「間」、台詞のリズム、受け渡し、台詞と動きのバランス、視線・・・それが観客の反応を決定してしまうのです。しかし断っておきますが、これは個別俳優の演技の巧拙をとやかく言っているのではありません。ましてや『湾岸』は基本的にはもちろんファルス(笑劇)ではありませんから、笑いをとることに俳優の力量のすべてがかかっているというわけではありません。けれども、作品のメッセージを正確に伝えつつ、かつ作品のアイロニーを伝え、観客から反応を引き出す、という能力は、考えてみれば至難の業です。うまく行ったときが奇跡なのかもしれません。

 作家、演出家の側から考えれば、上演の成否が、俳優が奇跡を生み出すかどうかにかかっている演劇は困りものです。全員が一丸となって奇跡をめざす演劇です。(たまに奇跡が起こることのほうがもっと困りものなのですが、・・・)ブレヒトならばそこに同化型演劇の脆弱な基盤を発見したかもしれません。言葉の演劇としての近代劇が、じつは最も俳優の身体ただひとつに成否の鍵を求める演劇であった、という逆説すらそこにはあるような気がします。
                         2004年12月号
 
佐藤康 (ドラマトゥルグ)


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