フラン•パルレ Franc-Parler
La francophonie au Japon

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ジャクリーヌ・ダノ、ブルターニュ出身の歌手・舞台女優
投稿日 2005年9月1日
最後に更新されたのは 2017年3月28日
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ジャクリーヌ・ダノ•シャンソンの職人
 
「私は、ブルターニュ地方の船乗りの娘です。私たちブルターニュ人が最も大切にしている精神、それは“自分らしくあること”です」。控えめで堅実にキャリアを重ねてきた歌手で舞台女優のジャクリーヌ・ダノの言葉です。9月16日、愛・地球博(愛知万博)でショーを繰り広げるため、彼女は再び日本にやってきます。
 
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フラン・パルレ:最初から歌手を目指していたのですか?
ジャクリーヌ・ダノ:いいえ、全く違います。初めは、舞台女優を目指していました。舞台女優というよりも悲劇女優になりたいと思っていました。大きな役を演じることを夢見ていましたので、パリ国立演劇学校の受験準備をしました。ほっぺがぷっくりした大きなおさげ髪の私が悲劇女優になりたいと言うと、誰もが笑いました。みんなが笑うと私は泣きたくなりましたが、あるとき、シリアスな役をたまたま演じてからというもの、喜劇役がまわってくることはなくなりました。
私は地方の文化センターに行き、本格的に演劇を学びました。地方分権が始まった頃です。私の初舞台は、ボーマルシェの『フィガロの結婚』でした。ファンシェットを演じ、シェルバン役はデルフィーヌ・セリッグでした。
私が歌手になったいきさつは、実は泥棒にあるんです。おかしな話でしょう。ある作品を演じたとき、プロデューサーはまだ私にギャラを支払い終わっていなかったのですが、私は友人たちとヴァカンスに小さな家を借りていました。当時は郵便局員が配達してくる為替で支払われていたのですが、それを受け取った私は、家の中の積み重なったお皿の間に隠しておいたのです。しかし、外から帰ってくると、家は泥棒に入られていて、証書はなくなっていました。そして、私はカンヌのクラブに詩の朗読をしに行きました。ですが、シーズン真っ盛りで人々が浮かれているカンヌで、例えばロルカの詩のようなものは受け入れられるわけありませんよね・・・。
クラブのオーナーに「君は歌は歌えないの?」と聞かれました。歌えるかどうか分からないわと答える私に、彼は、「何曲か歌えるようにして、明日またおいで」と言いました。こんな風にして、私は歌を歌うことになりました。一人の泥棒がきっかけになっているでしょ。
 
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フラン・パルレ:ミレイユ主宰の「プチ・コンセルヴァトワール・ド・ラ・シャンソン」で歌を学んだのですか?
ジャクリーヌ・ダノ:ええ。パリに戻ったとき、ミレイユのところに行きました。なぜなら歌うことが好きになっていましたので。ミレイユが歌手を目指す若者たちをサポートするこの小さな歌の学校は、当時、(ラジオ局内のスタジオにあり)ラジオ番組として知られていました。これは後にテレビ番組化されました。SACEM(著作権協会)の現在の会長、クロード・ルメルもミレイユの学校の生徒でした。アリス・ドナやフランソワーズ・アルディなどのトップ歌手や歌謡界で少しでもその時代に名の知れた人たちはみな、ミレイユの学校出身です。彼女は、生徒たちに大変厳しく、思ったことをはっきりと言ってくれたので、私たちのためになりました。彼女は、私たちにこう言いました。「歌手という職業は、キツく、楽なものではないのよ。疑う時が誰にでもあるものなの。でも、心から信じてやれば、スターにはなれないかもしれないけれど、素晴らしい職人にきっとなれるはず。それが、一番大切なことなのよ」と。
 
フラン・パルレ:それからはどのように?
ジャクリーヌ・ダノ:毎年暮れに、ミレイユが優秀だと思う生徒たちを集めてショーを催していました。私は、ガラパーティで歌うことができ、そこにキャピトルレコードのアーティスティックディレクターたちが見にきていました。こうして、私は契約を結ぶことになったのです。彼らは、「スタジオに来て、歌ってみなさい」と言いました。これが始まりです。そして、あるラッキーな出来事が起こりました。
ある日、ディレクターであるジャック・ポワッソンのオフィスに私は入っていきました。彼は、エディット・ピアフやジルベール・ベコー、ティノ・ロッシイ、そしてまだ若い女の子だった私を担当するアーティスティックディレクターでした。私は、当然いつものように彼がそのオフィスにいるものだと思い、若いピチピチした歌手がプロデューサーに会いに来た様子を真似しながら中に入っていきました。しかし、そこにいたのは、ジャックではなく、私の全く知らないエティエンヌ・ペリエという映画の演出家だったのです。彼は「私が探していたのは、まさにこのような人物だ」と言い、ダニエル・ダリュー主演の『45回転の殺人』で私は初の映画出演を果たすことになりました。全くの偶然ですね。
 
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フラン・パルレ:映画の中で、声の出演や歌も歌っていますよね・・・。
ジャクリーヌ・ダノ:(笑)あのエピソードのことですね。音楽家のミッシェル・ルグランに確かめてみてください。
吹き替えはいくつかしてきましたが、それはジャック・ドゥミの『ローラ』という映画でのことでした。ミッシェルは、私に「ダノ。(主演の)アヌーク・エーメが歌ってみたけれど、ダメだよ。あれでは公開できないよ」と言いました。ジャック・ドゥミの奥さんで映画監督のアニエス・ヴァルダは、以前私がレコード会社パテ・マルコーニのタレントだったときにポスターを作ってくれた人ですが、そういう縁から私はアヌーク・エーメの代わりに歌うことになったのです。しかし、当時、私はパテ・マルコーニとの契約があったので、本当なら他での仕事を引き受けることなど出来ないはずなのですが、彼らの役に立ちたいと思い、あえてリスクを冒しました。しかし、その後、『アヌーク・エーメ、ローラを歌う』というCDが出たのには、何とも複雑な思いがしましたが。
 
フラン・パルレ:最近の活動は?
ジャクリーヌ・ダノ:CDを出しました。10数年前にパリのトリアノン劇場でコンサートを開いたのですが、そのときのライブCDです。コンサートの収益金は、リヨン地方のプラネット・デ・ザンファン(子供たちの惑星)という協会に寄付しました。この組織は、エイズに感染したハイチの小さな子供たちを収容する施設で、中には親もいない子供もいます。痛ましいことですね。メンバーと私は、この組織に収益金の全てを寄付しました。
 
フラン・パルレ:日本人とコラボレートしたCD『モネの庭』について聞かせてください。
ジャクリーヌ・ダノ:それは、ちょっと信じられないような話なんです。加藤修滋さん(日仏シャンソン協会日本支局長、シャンソニエオーナー)が曲を送ってきて、「私のシャンソニエの10周年記念に、私が作ったこの曲を歌って」と言ってきたんです。歌えませんと言いました。なぜなら簡単には歌うことのできないような曲だったからです。彼の作った曲の中から最も簡単なものを選びましたが、絶対に歌えるわけないと思っていました。それに、曲には歌詞もついていなければ、テーマさえも明らかではなかったからです。
私は、友人の一人を呼び、その曲について少し語り合いました。彼が帰ろうとしたそのとき、私の小さな家の階段で、「見つかったわ!この曲のテーマが分かったわ」と叫びました。『モネの庭』。理由は、私自身にも分かりませんが、ひらめきました。まるでポンと肩をたたかれたようでした。
 
フラン・パルレ:愛知万博では何を歌いますか?
ジャクリーヌ・ダノ:確かな事がひとつあります。まだ一度も歌ったことのない曲を歌います。作詞家のアンリ・コンテの古い曲、『パダムパダム』を歌おうと思っています。『マドモワゼル・ド・パリ』を書いたのも彼です。彼の生誕100年を記念し、この曲を歌います。フランス歌謡界の偉大な人物であり、ミレイユの素晴らしい友人であった彼に、私からウインクを投げかけたいとひそかにたくらんでいます。
 
2005年9月
インタヴユー:エリック・プリュウ
翻訳:三枝亜希子



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